31.伸ばした手は届かずに(2)

 ミィアは赤熊洞の入り口の前の小さな石段を、せっせせっせと掃き下ろしていた。

お昼前のこの掃き掃除は彼女の日課になりつつある。

落とした枯葉を塵取ちりとりで回収して、店の前もついでに綺麗にしておくと、ルピルがとても喜んでくれるのでいつも彼女は率先してこれをするのだった。


「ふぅふぅ、やっと終わったぁ……あれ、お客様?」


 目の前の通路から歩いてくる人影に、ミィアは拭っていた額から手を下ろす。


「あら可愛い。ちょっと尋ねてもいいかしら……ここが赤熊洞っていうお宿で間違いなぁい?」

「は、はい、そうです。お、お客様ですか? でしたら、ようこそいらっしゃいましたのです……あっ」


 目の前に現れた銀髪の麗人。

自分と同じ獣人とは思えないその美しいたたずまいについつい手元がおろそかになっていたミィアは、ほうきで集めた葉っぱを押さえておくのを忘れてしまった。


 そこに一陣、風が吹いてせっかく集めた枯葉を吹き飛ばして行く。

慌てて押さえてももう遅い。

元の通りに散らばってしまったそれらを見て、ミィアは肩を落とす。


「あうぅ……」

「あら、御免なさいね、お仕事中に邪魔をしたから……【風旋陣リド・ヴェラ】」


 彼女が手を拡げ一言呟いた途端、周りの風が緩い渦を巻き、するすると落ち葉が集められてゆく。

そして、風が消えた後、ミィアの手にした塵取りの中には、こんもりと集められた黄色い山があった。

ミィアは手品を見たように目を輝かせる。


「お姉さん、お姉さん、凄いです! あれは魔法なのですか? ……わ、わたしもあんな風にできたらいいのに……」

「ほら、私のことは良いから、早く捨てに行くといいわ。と、その前に……」


 彼女は手櫛で乱れたミィアの茶色の髪を優しく整える。


「もういいわ。これでうんと可愛くなった。それじゃあ中に入らせてもらうわね」


 ミィアはそのぴんと伸びた背筋を目で追いながら、頬に手を当てて妄想を膨らませる。


(はわぁ~……なんて綺麗で格好いいお姉さんなんだろう……私も頑張ったらあんなふうになれるかなぁ? ……いけないいけない、せっかく集めて貰ったのにまた散らしちゃう)


 ミィアはいそいそと落ち葉を屑籠くずかごへ持って行った後、整えて貰った髪を見ようと、鼻歌を口ずさみ水場に向かってスキップしていく……。


 そして、少し軋む扉をくぐったファルイエが相対したのは、樋熊のような大きな体を丸めた赤髭あかひげの男である。

目が悪いのか、新聞に顔を近づけるようにしていたその男は、来客に気づくとこちらに向き直った。


「初めて見る顔だが、この宿にお泊りで?」


 不愛想なその口がもごもごと動き、空気を震わす様な低い声域の声を発した。


 男の威容は、仕立てのいい衣服を着こんでさえいなければ、まるでやくざ者か用心棒にしか見えず、この男を前にして客ですと素直に言えるものがどれだけいるか疑問である。

だがまあ、それはならず者に対しても同じで、この建物の防犯事情に一役買っていると言えなくも無いのかも知れなかった。


 しかしファルイエは、気負うことなく用件を口に出した。


「失礼。私、ファルイエ・ロトシルタという学士なのだけれど、エイスケという男が、ここに泊まっていると聞いて来たの。もし良ければ取り次いでいただけるかしら」

「……少しお待ちいただこう」


 店主らしき男は片眉を上げると、手元にあった何かのボタンを押す。

遠くで軽やかな鈴の音が二度ほどした後、奥から足音が近づいて来た。

出て来たのは見事な赤毛の娘である。


「ルピル、エイスケの姿は見かけたか?」

「ん~、外に出て行くのは見てないけど、お客様なの?」


 タルカンが視線を送った方向をルピルも見て、微笑んで会釈する。

ファルイエはその素直そうな娘に笑みを返す。


「お仕事中に呼びつけて申し訳ないわ。彼がいるのかどうか確かめて頂けるとありがたいのだけど」

「わかりました。こちらに食堂をかねた休憩室が有りますので、少し座ってお待ち頂けますか?」

「ええ、ご配慮感謝するわ。ありがとう」


 申し出を受け、ありがたく座ってくつろいでいると、腕まくりをした一人の少年がテーブルの拭き掃除をしている。

彼も獣人で、毛の色は違うが、入り口の前で出会った少女と関係があるのかも知れない。


 肌の色艶も良いようだし、目に生気もある。

痩せてはいるが大事にされているのがわかり、ファルイエは店主の人物像を大きく修正して微笑んだ。


 フェロンのような内陸部の国では、あまり獣人を見かけることは多くない。古い時代に迫害があった所為で、多くの者が追われて険しい土地へと旅立って行ったようだ。


 もう過ぎ去った時代のこととはいえ、未だに古い因習を引きずるものもいる中で、こうやって幼いとはいえ仕事を与えられているのは喜ばしいことだと言えるだろう。


 少なくとも食うに困り、飢えで足搔くことになるよりかは、はるかに……。 


 ファルイエは嬉しそうに顔を緩めると、少年の肩を指で突く。


「ねえ、そこの少年。少しお姉さんとお話ししない?」

「……何ですか。俺、仕事で忙しいんですけど」


 少年はともすれば睨んでいると勘違いしかねない半眼を向けて、作業の手を止める。


 どことなく、エイスケに雰囲気が似ているような気がして、少しだけ笑いをこらえながら、ファルイエは質問した。

目を覗かれるのを気にしてか、少年はついと、目を下に反らした。


「エイスケって男、いるでしょ。どんな感じ?」

「……あんたも、あいつの客ですか。別に……普通の奴ですよ。暗くて、いけすかない感じの……」

「ふ~ん……」

「でも……まあ、悪い奴じゃないです……多分。俺達をここに引っ張って来たのも、あいつだから」

「あなた達は、今ここで暮らしているのかしら?」

「ええ、妹も俺も身寄りが無いですから……」

「そう、ごめんなさい……でも、良かったわね、いいお家が拾ってくれて」

「そうですね……そうなんだと思います」


 煮え切らない返事で、場の雰囲気が塞いでしまったのを察知したように少年は顔を上げた。


「もう、いいですか?」

「ええ、ありがとう。参考になったわ」

「あ……。ええと、俺から一つだけ聞いて見てもいいですか?」

「何かしら?」


 予想外の言葉が返り、ファルイエの首が僅かに傾いた。


「……獣人達が、苦しまないで暮らせるところを知りませんか? 姉さんは、良い暮らしをしてそうだから。 知ってたら……妹だけでもそこに送ってやりたい……いつか」

「そう……そうね。南の方は、比較的そう言ったことが少ないかも知れない。でもね、どこもきっとそんなに変わらないわ……一番いい事は、あなた自身が頑張って強くなること、体も心もね。それと後は……誰かに手を伸ばすこと」

「……それは無理だよ。俺には……怖いもん。だって、この街の人達は、俺達が腹減って死にそうなときでも、目もくれずに通り過ぎて行った。ご飯を下さいって頭を下げて貰えるのはごみみたいな残飯で、それでも腹に入れられるだけましだった。ずっと毎日、何でこんなに悲しい思いをして生きないといけないのか、考えて……幸せそうな人が憎たらしくてたまらなかった。俺達と同じ思いをして見ればいいって……今もあの時の苦しかった気持ちが根っこに残ってて消えないんだ。こんな奴が傍に居たら、妹だって辛い思いをしてしまう」


 少年は辛そうに俯く。

きっと、小さな彼に今までに色々な苦しみが襲って来たのだろう。

気配を消して動くのも、顔を俯けて歩くのも、苦しいことから逃れたくて身に着けた彼なりの処世術なのかも知れない。

でも、それではきっと、自分で自分の居場所を狭めていってしまうだけだ。

そしてやがて、息さえもつけなくなる。


 ファルイエは、苦悩する彼を優しく抱き寄せた。

少年の背筋が震えて、彼の目が固く閉じられる。


「大丈夫よ……ゆっくりでいいの。少しずつ強くなりなさい。あなたは今までとっても苦しい思いをして来たんだから、それを乗り越えたことを自信に変えていけるはずよ、絶対に……。今少しずつ、あなたの周りにも信じられる人が出来始めているはず……妹さん意外にもね。そうして強くなって、助けたい人が出来れば……守りたい人が出来ればきっと変われるわ。さあ、引き留めて悪かったわ、お仕事頑張ってちょうだい」


 そうして彼女は小さな同胞の体を離す。

素早く後ろに向き直って駆けだそうとした彼は、その前に小さな声で一言だけ感謝の言葉を呟いて行った。


 ファルイエは、選んだ言葉が正解かどうかをかえりみて嘆息する。


(少しばかり、綺麗事が過ぎたかしら……でも、少しでも元気づけてあげたかった)


 実際には、現実はそううまくは行かない。

力が無ければ地面に這いつくばる事になり、誰も助けてはくれない。

信じていた友に裏切られることだってある。

だがそう言ったことを糧にして進む位の強さが必要なのだ。

身分の低いものが幸せを掴む為には……。


 ファルイエはその小さい背中を目で追い、彼の人生が少しでも豊かで幸福なものになることを祈った。


 それと同時に、入れ違いでエイスケが入って来る。

いつも以上に陰鬱な表情で、こちらをきつくめ付けていた。

後ろのルピルは厨房へと姿を消す。


「……あんなことがあった後で良く顔を出せたもんだ」

「そういうことはロナちゃんに言ってちょうだい。と言っても、今日は一緒じゃないけれどね」

「……用件は」

「もう……そればっかりじゃない。少しは余裕を持たないと、舐められるし、もてないし、良いこと無いわよ?」

「知ったことか……」


 エイスケはそう言いながらも彼女とは離れて座る。

口ではああ言っていても、話は結局聞いてくれるのはこの男の可愛いところでもあると、ファルイエは思った。

口に出したりはしないが。


「単刀直入に言うけど、もうすぐ私達、この街を出るの。南のオリガウラムへ向かうわ。仕事でね、それもとびきり危険な」

「……あいつも行くのか」


 彼は、かたくなにこちらと目を合わせようとはしない。


「残念なことに、人手が足りないし……私も生憎そうそう上に逆らえる立場じゃなくてね。にしても、ロナちゃんの心配はするのに、私はどうでもいいわけ? 差別じゃない?」

「あんたは……何となく死にそうにないからな」

「ふふ、お褒めの言葉として受け取っておこうかしら。それで、ねえ……あなたも同行しない? お給料は弾むわよ?」


 ファルイエはテーブルの上に身を乗り出し、片手でチルトのマークを描くと、片目をぱちりとつぶる。


「どうして俺が……」

「もう一人ギルドから同行者が出てるけど……正直私も何かあった時、ロナちゃんのことを守り切れるかどうか分からないのよ。でもどうしても、作業人員として彼女が必要になるの。一人でも多く、護衛が欲しい」

「……あんたがそこまで言う相手なら、なおさら御免だ。俺にもちゃんと、守ってやらないといけない奴がいる」

「そう……わかった。無理強いできるようなことじゃないものね」


 そうは言ったものの、彼女は言葉ほどに残念そうには見えなかった。

断られることを予期していたのかも知れない。

そして、長居するつもりも無いようで、彼女はすんなり席を立つと、言い残す。


「私達は、しばらくオリガウラムにある、《 あかがね黒鉄くろがね》という宿を拠点にするつもりだから、もし何かあったらそこを訪ねてちょうだい。それじゃ……また会えることを祈ってるわ」


 そうやって、ファルイエは最後まで笑みを崩さすに去って行く。


 エイスケは、口をわずかに開けたまま、その姿を見送る。

彼には、危地へ向かう彼女達を追いかける動機も、資格も無い。

ただ数日、一緒に仕事をしただけの間柄で……。


 開いた口は、どんな言葉を発しようとしたのか、何と言えばよかったのか。

自分でも結局、分からないまま……言葉に出来なかった想いを飲み込むように、口を閉じた。

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