21.今はまだ心揺らして(2)
無我夢中で走り、気づけば中央通りの広場付近まで来ていた。
荒げた息を整えようと、そのまま空いていた長椅子に腰を下ろし、深呼吸をするも、ぐるぐると渦を巻く不快な考えは止まず、胸が苦しい。
(私、駄目だ……どうしてあんなことを……!)
ルピルは流れる涙をそのままに膝に顔を
自分の言葉が信じられなかった。
大好きだった今は亡き母と、父から受け継いでいくつもりだった大事な仕事。
親がそうだからというのを言い訳にしたくなくて、小さな頃から一つ一つ、一生懸命覚えて、次第に自分の生活の一部として染み込んで、ずっと続けていけると信じて疑わなかったのに……。
それを、今自ら放り出してきてしまった。
(私、心の奥底では、そんな風に思っていたの? もう、自分で自分のことがわからないよ……)
猫のように丸く縮めた体が時間と共に冷えてゆき、意識がぼんやりとして何も考えられなくなっていく。
どこか心地よいその感覚に抗おうとしても、力も意思も一片たりとも湧いてはこなかった。
(戻らないといけないのに……足が動かない)
周囲の音がどんどん遠くなってゆき……体がふわふわと浮いているような、沈んでいるような、どちらとも付かない妙な気分に
(このまま……消えちゃえたらいいのに)
砂を噛む足音らしきものが向かって来るのも、心を閉ざしたルピルには聞こえていなかった。
そうして姿を現したのは複数の柄の悪そうな男達だ。
彼らは彼女を指差すと下卑た笑いを浮かべ取り囲む。
頭を反り上げた目つきの鋭い男が、唇を歪めるとルピルの腕を掴み上げた。
「上玉じゃねえか……へへ、嬢ちゃんどうした? 呆けたツラして」
「ひひっ、可愛いじゃん。ここじゃ何だ……向こうでゆっくり楽しいことしようぜぇ」
男の手が無遠慮に顔に触れて、嫌だなと思いながら彼女は身を捩ったが、そんなことでは強く掴まれた腕は外れてくれない。
彼の手が顎から首筋、肩と移動した辺りでようやく怖気が走って、彼女は自分が何をされようとしているかを理解して悲鳴を上げようとした。
「おおっと……叫んじゃあ台無しじゃねえか。面倒くせえ……とっとと連れてくぞ」
それを察した男の一人が口を抑える。
手と口を縛られて体を抱えられ、抵抗も出来なくなった彼女の視界が滲んでゆく。
足をばたつかせ、ささやかな抵抗を示しながら彼女は必死に祈った。
(嫌だぁっ! こんなの……怖いよ……誰か、誰か助けて! お父さん、エイスケさん! 誰かぁっ……!)
――その願いは、唐突に叶えられた。
何かを砕くような重たい嫌な音が、数度耳に響き、浮遊感がして、自分の体が地面に投げ出される衝撃に思わず薄く目を開く。
涙で滲んだ視界に飛び込んできたのは、黒い衣服を纏った黒髪の男。
(エイスケさん……?)
その後ろ姿に、いつも目にしている無愛想な男の顔が浮かぶ。
遠慮も呵責も無く肉を打ちのめす暴力的な音が数度響き、男達の悲鳴が上がる。
「ってめぇ、何だいきなり! ごぼっ」
「や、やめろって、それ以上やられたら死んじまう……そ、その入れ墨。た、助けてくれぇ、ひああっ」
「見逃してやるからとっとと失せやがれ……このゴミクズどもが」
威圧の効いた低い声に、慌ただしく去って行く悪党達の足音がした後、黒衣の男がゆっくりと振り返った。
(違う……誰?)
その男は想像した人物とは、全くの別人だった。
人を寄せ付けない雰囲気や、顔立ちがとても良く似ていたが、タイトな革製の作業着に身を包んだその体は一回り小さい。
片目を髪で隠したその男はこちらに寄って来て、彼女の体を起こし、怯える彼女に柔らかい声音で話しながら、縛られていた部分を解放してくれた。
「心配すんな、俺はあんたに何もしねえよ。……だがな、街中とはいえ女一人でうろついてるあんたも悪いんだぜ? これに懲りたらお守の一人や二人付けて出歩くこったな」
首から肩にかけて描かれているのは、千切られた白い羽に向かって手を伸ばす悪魔を模した黒い入れ墨だ。
そんな恐ろしい風貌にも拘らず、男が頭の上に乗せた手に不思議な温かみを感じて、ルピルは心を落ち着かせた。
先程無法者たちを一瞬で黙らせた者と同一人物とはとても思えない。
「あの……あ、ありがとうございました」
「構わねえよ……気に入らねえクズを叩きのめしただけだからな。おっと、騎士様が来なすったようだぜ、お姫さん」
男はそう言うとルピルの体を引っ張り上げた。
細身の割に随分と力はあるようだ。
余程耳がいいのか、誰かが駆けつけて来たのを聞きつけたようだが、その足音が近づくにつれ男は額のしわを深く刻んでいく。
「悪りぃな……こいつとは、今顔を合わす訳にはいかねえみてえだ。それじゃな」
「え、あの、私はルピルって言います。あなたの名前を……」
男は何も言わず、素早く身を返すと駆け去って行く。
あっという間に姿が見えなくなった彼と入れ替わるようにして現れたのは、今度こそ本当にエイスケだった。
「ルピル! ……どうした、何があったんだ」
着衣と髪が所々乱れた彼女にエイスケは走り寄る。
「無事なのか!? 怪我は!? 何をされた!」
「……だ、大丈夫、そんなに肩を掴まれると、痛いよ……」
まだぼうっとしているルピルが、肩に食い込む指に痛みを訴えてやんわりと押しのける。
「大丈夫だよ、何もされてない……助けてくれた人がいたから」
「……済まなかった。すぐに追いかけるべきだったのに」
彼女の体に付着した、砂や木の葉を払ってやりながら、正体を失くしたようなその姿を不安げに見ていると、視線を大地に向けたまま、彼女が雫のように言葉を落としていく。
「……エイスケさんかと思う位、よく似た人だったの」
「ん……何だ?」
その
「黒い前髪で片目を隠した……あなたとよく似た顔立ちの人が、助けてくれた。首に入れ墨をしていて、でもとても優しい手をした人……」
エイスケの手が止まって僅かに震える。
強い困惑に瞳の奥を揺らしながら、動揺して制御を失った声が、いつもとは違う調子で響いた。
「そいつ……他に……名前とかは?」
「……聞いたけど、教えてくれなかったの。あなたが来てくれようとしているのを見て、何故か急いでどこかへ行ってしまった」
「そう……か。そんなはずは……無いよな」
(そうだ……シンヤがまだ、ここにいるはずが無いんだ)
完全に
今は目の前のこの娘を、宿に連れて帰らなければならない。
「あまり、心配をかけるようなことをしないでくれ……さあ、赤熊洞へ戻ろう」
そう言って彼女の手を引こうとするが、彼女は動こうとはしなかった。
俯けたままの顔は、暗いままだ。
「……ごめんなさい、こんな気分のまま戻りたくないの……」
「わがままを言わないでくれよ……もう、辺りも暗くなって来てる」
「せめて、もう少し時間をちょうだい……」
もう辺りは日も傾き、薄暗い闇に包まれ始めている。
だが、このまま無理に連れ帰っても、しばらく塞ぎ込んだままになるだろう。
なら少しでも、気持ちを吐き出させた方が良いように思えた。
「わかった、少し歩こうか……」
困り果てながらも、取りあえず腰を据えて話せる場所を探す為にルピルを促して、ゆっくりと手を引いていく。
とりあえず何者かに助けて貰えたのは僥倖だったが、それとはまた別の問題……帰還した後のタルカンの鉄拳制裁が頭をよぎり、エイスケは胃を痛めながら覚悟を決めるしかなかった。
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