20.消せない契約の印(1)
フェロンの街南部に構えられた治療院の一室。
壁に窓から入る陽光が反射して、くっきりとその白さを際立たせている。
開いた窓の隙間から吸い込まれる風が、涼しいというよりは寒く感じ、レンティットは寝台から出られずにいた。
(寒い……出たくない。何で窓が遠いんだよ……上着、上着が無いときついって。毛布も薄っぺらいし)
治療着は心許ない薄さで、院の管理者に文句を言えど、上に掛けるものを用意してはくれなかった。
仕方なく彼女は、荷物のなかにある外套にでも包まろうと、寝転んだ姿勢のまま手を伸ばす。
だが、後少しで届かない。
不精せずに体を出せば良いのだが、後手の平一個分位で届くのだ。
諦めるのも何だか悔しいような気がして、顔を赤くしながら、さらに体を乗り出したその瞬間。
「わひっ……!」
視界が反転する
シーツがずれ、ベッドの縁に掛け損なった手元が空を切って、レンティットはそのまま転げ落ちた。
体を投げられたかのように背中から着地して、息を吐き出す。
「痛ったぁ……あ~あ、もう、最悪……」
完全な自業自得だった。
(くそっ……こんなことになったのも、あんな奴の無茶に付き合った所為だ)
それなのに、ここにいない男の顔を浮かべて、無理やりに責任転嫁する。
これで終われば、まだ自分だけの笑い話で済ませられただろうに、大抵こういった時には間の悪いことに誰かが近くにいるものだ。
徐々に迫る足音が大きくなり、焦ったように扉を開いたのは、服から顔まで黒っぽく陰気そうな長身の男。
「おいっ、どうした! 大丈夫……か?」
男は何が起こっているのか理解できず、服も乱れ床面のほこりにまみれた少女を、どうしたらいいかわからず、手を握っては開く。
そして、丁度いい憂さ晴らしの相手を見つけた少女はゆらり立ち上がり、目を光らせた。
傍らにあった荷物鞄を持ちながらずかずかと男の前まで歩み寄る。
「勝手に、部屋に、入って来んなぁーっ!」
振り上げた鞄に魔力を込め、両手で握ったそれを思い切り下からぶち当てる。
大の男に投げ飛ばされたような衝撃を受け、なす術も無く吹き飛ばされた瑛介は通路の壁に体をぶつけて崩れ落ちる。
「……何、で……だよ……くそッ」
「ふん……いい気味だ。……ふぅ、寒い寒いっ」
それをレンティットは見下して鼻を鳴らし、外気に肩をすぼめながら内開きの扉を足で蹴って勢い良く音を立てて閉じた。
何が起きたかわからず、理不尽な暴力に視界をぐらつかせる瑛介の目の前を、手土産に持って来た果物のいくつかがコロコロと転がっていった。
――と、まあ彼女の傍若無人な態度に何らかの被害を被ることが幾度もあったせいで、エイスケは警戒心を持ちながら、入室するようになった。
おまけに体力が回復する数日の間、やれ何が足りないと事あるごとに当然のようにこき使われるが、それも慣れてきて、明日にも退院を控えた頃。
彼は一つの重要な質問を問うために、レンティットの前にいた。
冴え冴えとしたコバルトブルーの瞳に半眼で睨みつけられるのも、いつものことだ。
膝を抱えた姿勢で、レンティットは雑に言い捨てる。
「誰かと話したい気分じゃ無いんだけど、何か用?」
(お前の機嫌がいい所を俺は見たことは無いけどな……)
喉元から出かかる言葉を何とか脳内で処理し、簡潔に用件を告げる。
体調を
親指で自分の胸を突く。
「契約について、詳しいことを聞かせてくれ」
ある程度は予想していたのか、何の感情も見せない瞳で、レンティットは物憂げに呟く。
「聞いてどうするのさ」
「どうって……自分の体に何が起きたのか位は誰だって知りたいだろ」
「そうかな……知らない方が幸せってことも、あるかも知れないよ?」
薄く笑うレンティットの態度は冗談なのか、本気なのか真意が読み取れない。
エイスケの戸惑いなどまるで気にせずに、彼女は膝の上に組んだ手に乗っけた頭を傾けた。
「これはボクからの提案なんだけど、こないだのことは忘れて、もうお互いに関わらないようにしない? 命を拾っただけでも幸運だと思ってさ」
「……それで、この契約は消えるのか?」
「消えないけど……でもさ、あんたも見たろ。あんなのは人間が制御できるような力じゃない。例えるなら天災とかに近いものだ……過ぎた炎は我が身を焼くって言うだろ?」
同意を感じて少し口ごもるが、それはそうとしても、儀式を施す前に彼女が言っていた言葉が気になる……欠点が存在するとは何を差すのだろうか。
ここで引き下がるわけにはいかない。
「……別に力が惜しくてこんなことを言ってるんじゃないんだ」
「わかってるさ。そんな邪な考えを持つような人間だったらそも契約も成功せず、その胸の《鏡の契印》も定着しなかっただろうからね。でも、それならなおさらそんな力あっても、持て余すだけでしょ? 今なら……ここで振り返って黙ってその扉から立ち去れば、今まで通りの暮らしができるんだ、ほら……戻りなよ」
その優しげな声は暗に、もしこれ以上踏み込めば何か大事なものを失うと言っているように見えた。
彼女は顔を俯かせ何も言わないという意思表示だけをして、扉を指差す。
木床を鳴らす乾いた足音。
それにレンティットは小さく口の端を上げる。
(そうだ……そのまま出て行ってくれればいい。そうすればもう辛い思いはしなくて済む、あんたも、ボクも……。)
遠ざかるかと思ったそれは、一度どこかで止まった後、ゆっくりと近づいて来る。
そうして、ベッドの前で重い音と同時に止まった。
眉根を上げて持ち上げたレンティットの顔の先には、椅子にどっかりと座った瑛介の姿があった。
「……何だよ。帰らないの?」
「ああ、帰らない」
「あのさ、言っておくけど、親切心で言ってやってるんだよ。これ以上こっちのことに首を突っ込むと、せっかく生き残った幸運をむざむざ捨てるようなことになるかも知れない。わかったら、さっさと出て行けって」
まともに取り合わない彼女に対して、エイスケは切り札とすべく手を差し出してある言葉を投げかけた。
「金……治療費」
「はぁ……!?」
レンティットの体が石のように固まる。
「飲食費やらここでのこまごまとした雑費、それからここから出た後の宿泊費。払う当てはあるのか?」
「い、言ったじゃないか、数日前にこうなったのは自分の責任でもあるから、治療費とかは心配しなくていいって!」
書面にしたためたわけでは無いので、そこは素知らぬふりで通す。
「そんなこと言ったか? まるで覚えてないな……それに、お前、ここから出たらどうするつもりだ?」
「そんなの……あんたに気にされるいわれはない! どうとでもなるっ!」
「なる訳無いだろう……お前、飯も食わずにぶっ倒れたのをもう忘れたんじゃ無いだろうな?」
彼女が口を噤んだのをいいことにエイスケは追い打ちをかけるように言った。
「契約のことを話すなら、建て替えてやっても良い。ちなみに、街の金貸しは止めといたほうがいいぞ。真っ当な所じゃ担保も無しに貸しちゃくれないし、貸してくれるところがあったとしたら逆に利息をぶんどられて痛い思いをするだけだろうからな」
「ちょっと待ってよ……そ、そんぐらい融通してくれたっていいだろ!? あんたが無理させた所為でこうなったんだし」
「だから素直に話せば譲歩してやるって。さあどうする? 路頭に迷うか、観念するか、選べ」
途端に慌てだし、余裕を無くす彼女に少し留飲を下げながら、最後通告を突きつける。
効果は
あまりこういう芝居は好きでは無いが、少し位は反撃しておかないと、舐められるばかりになってしまうので、丁度いい。
「知らないからな……後々何が起こっても、責任は取らないぞ」
結局、ぎりりと歯を喰いしばるばかりの彼女だったが、やがて諦めたように語気を弱くしてゆっくりと語りだした。
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