17.弱い自分、帰るべき場所

 他に何も存在することの無い、真っ暗い闇の中。

光すらも差さない暗闇の中、体を横たえるようにしてエイスケはただ、浮遊している。


 液体のように彼の体を包み込んでいる闇は、彼の体をざわざわと撫でるようにしており、気味の悪さを感じながら、彼は体をよじろうと思った、そのはずだった。


(……動かない?)


 まるで自分の体では無いかのように意思が伝わらないそれを、エイスケはぼんやりと眺めている。

感じるのは、耐えがたい不快感のみだ。


 続く苦痛に意識が掻き乱される中、どこからか声が響いてくる。


 気が付くと、周りの空間に幾つもの仮面のような白い顔が表れていた。

それは、負の感情を込めた表情でエイスケをじっと見つめ続けながら、

聞き覚えのある声で、口々にののしりだす。


 そして回転木馬のように彼の周囲をぐるぐると回り始め、ノイズがかった音声が、ぐわんぐわんと頭の中で不安定に揺れ響く。


「なんで、お前だけが生きているんだ……」

「魔法が使えない異世界人などただの無価値なごみくずに過ぎない」

「そんなところに突っ立ってるんじゃねえ、汚いクソ野郎が!とっとと失せろ!」

「あんたが代わりに死ねば良かったのに!」


(止めてくれ……誰か、助けてくれっ!)


 ざわざわと彼の体をまさぐる闇は、気づけば彼の体をやすりの様に削り取っていく。

目を閉じることも体を動かすこともままならない彼は、ただ心の中で叫ぶことしかできない。


 そうやって彼を形作る要素が粉々に削れ、消え去った後、闇の中に新たに浮かぶのは他でもない彼自身の顔だ。


 周りの顔と同様に無表情なそれが見つめる先には、ルピルやタルカン、ロナなど見知った人達の姿が有り、そこへ向かいうごめく闇はまた幾つもの手を伸ばしていく。


(駄目だ、止めろ……そっちへは行くな! 誰か、誰か止めてくれっ!)


 彼の祈りに応じるものは誰もいない。

うねりながら進んで行くそれが罪なき人々を飲み込んでいく様を見て、エイスケは壊れゆく自らの心からあふれて行く何かを吐き出すように叫び続けた。


「――ああ……ぁあっ、ううっ、ぅぁあアアアァァァァ!! アアァッッ……!?」


 跳ね起きたエイスケの視界に白い寝具が映った。

夜着は汗で湿り、貼りついて体を締め付けている。

窓辺から差し込み始めた陽の光が、部屋の輪郭をわずかながら形作り、そこが住み慣れた宿の一室であることにエイスケは本当に安堵した。


 額から流れる汗を拭い、未だ脈打つ心臓を押さえながら息を整える。

そのくせ妙に手足の先は冷たく、強張っているのを彼は感じながら、彼は身を起こし衣服を着替えだした。


 夢の断片だけが黒い染みのように意識にこびりついて離れない。

せめて気分だけでもすっきりさせようと、水場へとおもむく。


 朝のすがすがしい空気が幾分か、胃の腑を押し上げるような気分の悪さを和らげてくれる。

だが、水面に映る自分の顔はいつも以上に冴えなく、陰気だ。

眉間に刻まれたしわを揉み解してため息を吐く。


(全く、自業自得だ。少しは強くなれたかと思ったんだがな……結局は昔のままか)


一人ごちるその姿を後ろから見ていて、声を掛けたのは、ルピルだった。


「はわぁ、おはよう。今日も早いねぇ……」


 あくびをしながらこちらに向かって来た赤毛の娘が、寒そうに上掛けを掻き合わせながらこちらに寄って来る。

いつもとは違って、髪は結わずに背中に流したままだ。

手櫛を入れながら少し恥ずかしそうにしている所を見ると、どうやら今起きたばかりらしい。

さらさらとした赤毛が朝日を浴びて橙色に艶めきながら揺れていた。


「俺の方はたまたま夢見が悪くてな……いつもこんな時間に起きてるのか?」

「大体ね……たまに寝坊しちゃう時もあるけど、朝ご飯の支度とかあるから。今日は何にしよっかなぁ……よし、エイスケさん、何かリクエストちょうだい!」

「俺は、今日はあんまり食欲が無いんだがな……」

「駄目だよ、冒険者は体が資本なんだから! ……それじゃ、私のとっておきにしちゃおっと!」


 彼女はエイスケの背中を軽く叩くと、身支度を手早く済ませた後、彼を食堂にそのまま引っ張って行く。

そのまま椅子に座り、体ごと木の卓に体を預けると、厨房の中から漂って来る何とも言えない良い香りが彼の鼻をくすぐる。


(ああ、少し眠くなって来るな……暖かくて)


 食堂に設置された暖炉の揺らめく火。

見ていると、不思議と心が落ち着いて来るのは何故なのだろう。

ちろちろと舐めるように、積まれた薪を崩しながらゆっくりと次へ次へと移り行く火を眺めていると、いつの間にか、目の前には湯気を立てた食事とルピルの顔があった。


「待たせちゃった? そのまま寝ちゃいそうな顔してたよ?」

「……いや、火を見てたらどうもな」


 その言葉に彼女も頷く。


「ああ、そうだね……なぁんか、凄くほっとするんだよねぇ。何でなのかな?」


 彼女も頬杖を突きながら、火に見入ろうとして止めた。


「ああっと……そうじゃなくて。それもいいけどせっかく作ったんだから、寝るんだったら食べてからにしてよ」


 目の前に置かれたのは、どうやらポタージュスープのようだ。だが、何かの上に目玉焼きが乗っている。

せっかく作ってくれたのだし、食べないわけにはいかない。


「卵は、半熟にしてあるから崩してかき混ぜると美味しいよ。 私も食べよっと」


 さじを取り対面で動かし始めた彼女と同じように、エイスケも卵を割り、かき混ぜようとすると柔らかい何かがあたる感触がする。それをすくい上げ口の中に含むと香ばしい麦の香りがした。


「細切りにしたパンを少しのバターと一緒に炒めて入れるの。サクサクだけどフワフワで美味しいでしょ?」

「ああ……優しい味だな。うん、これなら食べられる」


 二人して、息を吹きかけ冷ましながら夢中で頬張る内に、皿は空になった。

そうして二人してまたしばし、火を見つめる。


「……火を見てると安心できるのは、命と似ているからかもしれないね……一つの小さな火から、だんだんと周りに燃え移って広がって、でもやがては小さくなって消えてゆくの。私達と同じ」


 机にうつ伏せになりながら彼女のぼんやりとした瞳の中に炎がちろちろと揺れている。それはどこか、悲し気に見えた。


「人が寄り添うのも、一人だとすぐに消えてしまいそうになるからかも知れないね……だからエイスケさん、あんまり一人にならないでね? 黙って目の前から消えたりしないで」


 心配そうにこちらの瞳を覗き込む彼女は、珍しく少し不安定に感じた。

それを自身でも不思議に思ったのか、彼女は頬を軽く叩くと、いつも通りの笑みを浮かべ直す。


「……なんてね、ちょっと感傷的になっちゃった。さて、ご飯も食べたし、仕事仕事! エイスケさんも暗い顔してないでお仕事頑張って! それで疲れたら、またここに帰って来てゆっくり休んだらいいよ。私達はここにいるから」

「ああ、ご馳走になった。またお礼はするよ」

「気にしないで、大事な固定客なんだからこれもサービスの内だよ! それに……」

「……それに?」


ルピルは何か言おうとして口を開けてまた閉じ、少し頬を赤くさせた。


「その……な、長い付き合いだし家族みたいなものでしょう? だから、辛いときはお互い様だって、それだけ! さ、さぁそろそろ皆起きて来ると思うし、忙しくなるから……またね!」

「ああ、ごちそうさま」

 

 慌ただしくその場を去る彼女を見送り、酷かった気分を少し落ち着かせてくれたことに感謝する。


(家族か……さしずめ出来の悪い兄貴分ってところだな、全く)


 自分の弱さが嫌になる。

これでは獣人兄弟の兄の方にやかましく言えたものではない。

立ち上がり、首と肩を回して気合を入れ直し外に出ると、青く雲一つない空と透明なひんやりとした空気が意識をはっきりとさせ、不思議と気持ちが澄んでいった。

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