番兵 金峰
県尉が殺されたというのも大きな事件であるが、同時に別な側面もあった。
この周という男、元は下級の小役人であったのだが、先の大虐殺で多くの胡人の首を上げて出世し、先ごろ県尉に就任したばかりという曰く付きの人物であった。
そんな男が何度も何度も滅多刺しで殺害されたとなれば、恨みを持つ者の犯行であろうと誰でも予測は付くところであるのだが、何しろ己の出世の為に何百人もの人間を手にかけた男である。祟りだ呪いだという噂のひとつも出ようという物だった。
さて、曲梁城で夜回りを担当する
周の死体が運び込まれたのが昼過ぎ。午後に医者が検死を行い、棒のようなもので何度も体を刺されたと結論付けた。
県尉代理はそれを受けて犯人探しを始めたわけだが、その場に立ち会った金峰はどうにも医者の言い淀みが気になった。
その理由は金峰も間もなく理解した。
医者たちが立ち去った後、金峰は霊安室の入り口から中を覗いて周の死体を見た。台の上に半裸で横たわった死体は傷痕が確認でき、そこで違和感に気づく。
滅多刺しと言うならば、刺し傷は乱雑に重なって傷口も乱れているものだが、この死体の傷痕は一定間隔が過ぎると思った。
犯人が
更に左肩に四箇所と喉元に一箇所の刺し傷があり、そして首筋の右側、ここだけ肉が引きちぎれて滅茶苦茶になっている。
金峰の嫌な想像は続いた。
犯人が右手で相手の肩を掴んで指が食い込めば左肩の傷は整合し、肩をつかんだまま首筋に噛みついて食いちぎれば……。
死体の傷痕を見れば見るほど、金峰はこの想像が真実ではないかと思うのだが、人間の筋肉や骨を容易に指で貫く、そんな猛獣のような犯人が実在するのだろうかと頭を悩ませた。ましてや被害者は自宅の寝室で死んでいるのだから、野生の獣というわけでもなかろう。
医者が言い淀んだのは、そうした疑問が解決しないまま判断をするしかなかったからであった。
金峰は頭を振って嫌な想像を打ち消そうとした。何しろ今夜はこの部屋を含め、夜の見回りを任されているのだから。
さて、その夜。
夜も更けて、雲もなく晴れた夜空に星が瞬き、その中でひときわ輝く満月の光が明るく降り注ぐ。風もない穏やかな夜だった。寝静まった政庁の周辺は、虫の声と
見回りを任されている金峰は、同僚の番兵と交代し、慣れた様子で巡回をしていく。ほとんど明かりを落とした庁舎の中を、松明の火で照らしながら進む。
別棟に入ると、こちらは完全に無人で建物内は闇に包まれている。
ふと廊下の闇の奥に、松明の明かりが照らした一瞬、何かが動いたような気がした。そこは正に運び込まれた県尉の死体が安置されている部屋の前であった。
いつもなら何食わぬ顔で確認に行くところであったが、昼間に見た不気味な死体と、同時に嫌な想像を思い出す。
そんなのはただの想像に過ぎないと自分に言い聞かせつつ、金峰は恐る恐る件の部屋に近づいていく。
部屋の入口に扉は無い。ただそこから覗いて中を確認するだけだ。昼間見た通り台の上に死体があって他に何もないという事を確認すればよいのだ。金峰は松明を先に入り口に入れるかのように顔の前に構えて、恐る恐る中を覗いた。
そこには、本来ならまず目の前に飛び込んでくるはずの物が無かった。
死体だ。県尉の死体が無い。
台の上には何も無かった。
金峰は嫌な想像をあえて避け、現実的な思考をしようとした。
まずここは複数の見廻りが絶えず巡回している政庁である。何者かが侵入したというだけならまだしも、誰にも気づかれずに死体を外へ運び出す事はほとんど無理である。だとするならこの建物の中に、まだ侵入者もいるはず。死体もそこにあるはず。
金峰は他の兵士も呼び、状況を説明して大勢で捜索すべきだと思ったが、今この暗い建物の中に独りの状況で、大声を出して増援を求めるのはまずいと思った。
出来るだけ何事も無かったかのように、落ち着いて建物の外に出て、屯所の仲間と合流しよう。金峰は努めてゆっくりと戻り始めた。
そこで金峰は全身に鳥肌が立った。別棟から出ようと振り返ってすぐ、背後に気配を感じたからだ。自分は立ち止まっている。ここには他に誰もいないはず。いるとすれば侵入者かあるいは……。
背後には確かに気配がある。背後の闇の中に。
振り向いて松明の明かりを以って正体を確認するなど、恐ろしくてできなかった。
金峰は長い静寂を味わった。実際にはほんの数秒だったはずだが、それほどに長く感じたのである。
その静寂を破るように、背後からぺたりと、素足で床を踏む足音がした。
その瞬間に金峰は全力で駆けていた。悲鳴を上げていたかも知れないが、もはや自分では自覚していない。
こういう時に限って、体の感覚がまるで夢を見ているかのように浮遊してくる。恐怖を感じすぎると、防衛本能で現実感が麻痺するという。自分の事であるはずなのに、どこか他人の視界を覗き見ているかのような、そんな不思議な感覚に陥る。
しかしここで明確な意思を以って現実にしがみついていないと、感覚が途切れて失神してしまう。それは避けねばならない。金峰は一心不乱に出口に向かって走った。
別棟の出入り口には、また別な人影があった。外の月明かりが逆光となって顔が分からない。金峰はぎょっとしたが、近づくと持っていた松明の明かりでその姿が確認できた。
手に木剣を持った見知らぬ優男である。
なぜここにいるのかという疑問もあったが、そんな事より今は生きている人間に出会えた安心感と、そこに辿り着けば外に出られるという達成感の前には些細な事である。
その優男の視線ははじめ金峰を見ているものと思ったが、その肩越しに彼の背後を見ていた。正確には背後から追ってくるものを。
優男は木剣を構えると、静かに言う。
「伏せなさい」
咄嗟ではあったが、その言葉に従う金峰。同時に建物から出たいという気持ちも先行し、伏せながらも出口に向かって飛び込んだ。
優男の構えた木剣が、その頭上を通り過ぎた。
倒れ込むようにして出入口から飛び出した金峰は、そこでようやく背後を振り返った。
優男の構えた木剣が、背後から追ってきていたものを突き刺すと、稲妻のような閃光が発せられる。その光に浮かび上がった物は、金峰の想像通り、それも最悪の想像の通り、県尉の死体であった。死体が起き上がって追ってきていたのだ。金峰は改めて自分が震えている事に気づいた。
優男が木剣を引き抜くと、県尉の死体はまるで苦しみ悶えるように倒れ込むと、煙を発しながら焼け焦げた炭のように崩れていった。
優男はゆっくりと金峰の方に近づくと、その全身をまじまじと眺めて言う。
「うん、傷も負ってないし、君は大丈夫そうだ。さもなければ、君もあんな風になってたよ」
別棟の入り口付近で辛うじて人の形を保った灰の山と化した県尉の死体を見たのを最後に、金峰は意識が遠のいた。
金峰が次に目が覚めたのは、既に夜が明けかけていた頃。同僚の兵士たちに囲まれて介抱されていた。見回りの途中で倒れていたらしい。
あの優男の姿は既に無く、金峰は夢でも見たのかと思ったが、県尉の死体が消えていた事と、別棟の入り口が大量の灰で汚れていた事などが事実として残り、あれは夢ではないと知った。
だが誰に話しても信じてはくれないだろうと思い、その夜の事を金峰は誰にも語らなかった。
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