傭人 許範
曲梁城で県尉の遺体が発見された。その第一発見者は、県尉の家の
県尉が殺された朝、変わり果てた姿の主人を見つけたと県庁に駆け込んできて、犯人の姿は見ていないと証言した。
しかし許範は嘘をついていた。夜中に悲鳴を聞いて主人の寝室に向かった際、そこで見知った顔を目撃していたのである。
話は前年、件の胡人大虐殺の時の事。その当時は曲梁城の商家で傭人をしていた許範のもとを、真夜中に訪ねてきた者があった。
「
身寄りがない許範の事をそう呼ぶのは一人だけだった。幼い頃より共に育った
子供の頃は共に育ち、共に学び、共に夢を語り合ったものだが、ここ数年は互いに仕事が忙しく会えていなかった。
そんな弟にも等しい幼馴染が訪ねてきてくれた事は手放しに嬉しい事であろう。これが真夜中でなかったら。
真夜中の訪問を訝しみつつ扉を開けると、見知った義弟が若い女を連れていた。許範はぎょっとする。夜の暗さからすぐには気づかなかったが、その女は胡人であった。
許範の視線に気づいた徐翼が紹介する。
「
「婚約者って……、でも、お前……、その人……」
許範の言おうとしている事を察した徐翼は俯いて答える。
「あぁ……、分かってる。でも仕方ないじゃないか。何年も前から決めていたんだよ。突然あんな事言われたって……」
「でももし見つかったら……」
「分かってる。だから数日匿って欲しいんだ。せめて禰慈だけでも。警備の隙を見て、街から出るつもり。最終的には魏の支配域の外まで……」
許範は悩んだ。徐翼の助けになりたいが、もし見つかれば自分も
それに最近は密告が横行し、兵たちがいきなり家に押し入って強引に調べていく事も少なくない。数日の間、見つからずにいられるか……?
許範は険しい顔で首を横に振った。
「小鵬……、力にはなれない……。すまん!」
許範は扉を叩きつけるように閉めた。徐翼は扉を叩いてなおも懇願したが、許範は扉の内側に立ち尽くしたまま、ずっと黙っていた。
説得が無理だと分かると徐翼も諦めたようだった。
「ごめんよ
扉の向こうから、徐翼の悲しそうな謝罪が聞こえた。そして扉の前から足音が遠ざかっていった。
「すまない……、小鵬……、すまない……」
許範は扉にもたれかかると、大粒の涙を流して泣き続けた。
それから数日後、小役人の周沈が胡人数百人の首級をこれ見よがしに城壁に並べ、お上に報償をねだるために兵士に記録させていた。
許範は並べられたその首の中に、あの胡人の娘、禰慈を見つけた。その顔は目を見開き、恐怖に歪んだ表情のまま絶命していた。
許範は思わず目を背けた。
彼女が殺されたとなれば、徐翼もまた生きてはいないだろう。愛した人を捨てて一人で生き残るような男ではない。
「そう、俺なんかと違って……」
許範はそう自嘲した。
その後、許範の仕えていた商家の主人が胡人を庇ったと密告されて処刑された。許範を含む傭人たちが断罪される事はなかったが、職は失う事になった。
今はどこも不景気で、新たな勤め先など見つからない中、新しく就任した県尉が傭人を募集しているという。渡りに船で出向いてみれば、何とあの周沈であった。
義弟の仇とも言える男に仕えるなど、この上もない不義であると自覚していたが、ここで意地を張って野垂れ死ぬか、ふたつにひとつ。
許範はまたしても意地を通せなかった。自分は何と臆病な人間なのかと、毎夜涙を流す日々であった。
事件はそんな最中に起きた。
真夜中の悲鳴で周沈の寝室に向かった許範は、その部屋から出てくる徐翼の姿を見た。服はボロボロで、髪も乱れ、顔は青白い。正に歩く死体その物であったが、その顔は間違いなく義弟であった。
徐翼は死してなお、己の仇を討ちに来たのである。
許範はどうしても自分の生き様と比べてしまう。徐翼の如き義士に
きっと自分も恨まれている事だろう。周沈の次は、自分を迎えに来るはずだ。許範は確信めいたものを感じていた。
「もし……」
街の雑踏で声を掛けられた許範は、虚ろな目でゆっくり振り返る。背中に木剣を携えた優男が話しかけてきていた。
「あなた、死相が出てますよ」
優男は真面目な顔でそう言ったが、許範は鼻で笑った。それはそうだ。もうすぐ迎えが来るのだから。
「よかったらこの霊符をお持ちになってください。お守りです」
そう言って優男に霊符を渡された。黄色い符に朱の文字で魔除けの図形や言葉が書かれている物だ。別にいらぬと言って返そうとしたが、優男に半ば強引に渡され、結局そのまま持ち帰る事となった。
そして、その日の夜。
人も寝静まった真夜中。雲ひとつない夜空には美しい満月が浮かんでいた。
許範は燭台に火を灯すでもなく、かと言って眠るでもなく、窓から差し込む青白い月明かりの中で、ぼんやりと物思いに耽っていた。
あの時、扉を開いて徐翼と禰慈を迎え入れていたら、どうなっていただろうか。確かに見つかれば殺されただろう。だが生き残ったならば、少なくともこのような思いをせずに済んだはずだ。今でも胸を張って、あいつの
許範はもう心を決めていた。
義に背いてまでしがみついた雇い主が死んだ今、再び職を失ったのだ。どうせ逃げ延びた所で、どこかで野垂れ死ぬだけだろう。
扉の外から、足音がゆっくりと近づいてきていた。
真夜中の訪問者。
あの日と全く同じだった。
そして扉の向こうに立っているであろう相手も……。
許範は立ち上がると、扉の前まで行く。外の足音も、扉を隔てたすぐ前に立ったのが分かった。
許範はゆっくりと扉を開けた。
目の前には義弟の姿があった。
その姿は変り果て、もうその目に光はなかったが、その顔は変わらなかった。幼い頃に自分の後ろをずっとついてきた少年の姿が脳裏に浮かぶ。
許範は記憶を振り返るが、大人になってからというもの、義兄らしい事など何ひとつしてやれてなかった。あの日でさえ、自分は義弟を庇ってやる事ができなかったのだ。
あの日は、この扉を開けてやる事が出来なかった。
だからせめて今日は、扉を開けて、迎えてやろう。
もはや表情を変える事も、話す事も出来なくなった義弟を前に、許範はボロボロと涙を流した。
「小鵬……、ごめんな……」
それが許範の、最期の言葉となった。
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