約束
ああ、蒸し暑い。
僕は今、ただただ蒸し暑い部屋の中で一人、この暑さについての愚痴を頭の中で吐き続けている。
何故夏などあるのだろうか。
一歩でも外に出ればアスファルトから反射した熱が焼きつける。そんな暑さの中で通う学校の設備はオンボロなためにクーラーがない。退屈な授業中に肘でもつけば、配られたプリントはすぐに引っ付いてくる。
外からは運動部の声と、あの蝉の煩い声が交差する。三年生が引退してからは、数に反して彼ら運動部の声は大きい。グラウンドを走る野球部員は、誰かの合図とともに足並みを合わせて走っている。普段なら聞き流す音と、虫の不協和音が混じり合うとこんなにも酷い音楽が完成するとは、考えたこともなかったし、聞きたくもなかった。
「夏なんて無くなればいいのに。」
そう言って、わざとではないが、そう思わせるほどの大きなため息を吐いた。
「えー。私は夏好きだよ?」
「そうですかね・・・・うわっ!・・・・驚かせないで下さいよ・・・・」
彼女はまた僕の背後にいた。毎回毎回、僕を驚かせるような登場の仕方をする。今だって自然と返してしまった。
彼女は左腕を後ろに組み、もう一方の手の人差し指を口に当てた。夏用の制服からところどころ出る肌色は正直健全な男子高校生にとって目の毒でしかない。毎回目のやり場に困ってしまう。
「ちょうど来たばっかりなんだよ。それよりも、なんで夏嫌なの?」
なるほど、だから考えるような仕草をしていたのか。
彼女――と言うのは名前が分からないからだ。もっと正確に言えば、教えてくれないのである――はいつも僕の油断した隙にやってくる。
あの不思議な約束から二週間たった今でも、僕はこの部屋に通っている。不思議なことに、特別な理由もないがただなんとなく「行こうか」とふと思ってしまうのだ。彼女は人を魅了させる魔術師なのだろうか、と何度も思った。
「ただ暑いのが嫌なんですよ。他の季節と違って、夏と言ったらせいぜいスイカとか祭りとか。見所もない季節は、やっぱり飽きますよ。」
先程思い浮かべたことを少し並べ直して答えた。汗一つかかない彼女は、錆びたパイプ椅子を引き、僕の目の前に座った。夏の暑さにやられたのか、それともこの部屋のチョコレートの匂いのせいなのか頭がクラクラする。
「いいじゃん祭り。私は好きだなあ〜。屋台の雰囲気とかさ。」
どうやら夏の議論は立ち消えたらしい。
「屋台ですか?人が多すぎて嫌ですよ。値段は高いのに対して上手くないです。」
彼女はその清廉な顔に似つかわしくないほどの大笑いをした。
「あっはっはっ・・・・!君は本当捻くれてるなあ。まあそこがいいところなんだけど。」
褒めているのか褒めていないのか分からない。というより、僕は捻くれてなんかいない。常識的な、一般的な考えだろう。
彼女は窓のさっしに背を預け、少し外に出た顔を天に向けている。目を細めて太陽を浴びる猫みたいだ。その気まぐれさからなのか、またも彼女は思いもよらぬことを提案してきた。
「夏祭り、私と一緒に行かない?」
「え?」
思わず聞き返してしまった。
「だから、デートだよ。」
「え?」
語彙力喪失と言うべきか、「え?」以外の言葉が頭になかった。先輩が、僕と、デート?まさか?
「あはは、きつい冗談やめてくださいよ。」
どう返せばいいか分からなかったので、僕はお得意の愛想笑いをした。
「冗談なんかじゃないよ。それよりも、いくの?行かないの?」
彼女の言ったことは、冗談ではなく本気だった。決して軽い言い回しではなく、おちゃらけた口調などでもない。
彼女の瞳に映る僕は、どんな顔をしているのだろうか。
「少し、時間を・・・・。」
「いまいま。ここで。後輩くんのことだからどうせ引き伸ばそうとするでしょ。だから、いま。」
欲望に忠実な男子高校生である僕と、波風立てずに学校生活を過ごしたい僕との間でせめぎ合いが起きている。けれど、見つめてくる彼女の真剣な表情を見てしまっては、拒否など到底できるものではなかった。
「お、お願い、します・・・・。」
「えっ、いいの!?やったっ!」
「ちょ、せ、せんぱ・・・・。」
肯定するや否や、彼女は走り寄って僕の手を握った。鼻腔をくすぐる匂いは、この部屋に長くいるせいなのか、チョコレートの匂いがした。
「絶対だからね、約束!」
「そんな薄情な人間じゃないですよ、僕は。」
「確かにそうだね。おわっと・・・・。」
僕が目下悩んでいた事態に彼女も気づいた。バッと手を離し、彼女は数歩後ろに下がって握っていた手を背中に隠した。普段狼狽することのない彼女が初めて見せた姿に、僕は心底驚いた。けれど、僕も動揺していては面白くない。普段彼女にからかわれている僕にとって仕返しのするチャンスだ。
「何をそんなに驚いてるんですか。祭りは三日後、連休の後です。先輩はメール使ってないんですから、時間決めないと。」
「そ、そうだね・・・・。」
策は上手くいったようで、彼女は額にうっすらと汗をかき、耳まで真っ赤にして俯いていた。ちょっとやり過ぎたかと後悔もしたが、普段やられている分、これくらいならいいだろうと自分勝手な解釈をした。
「五時スタートだから、五時半くらいに集まる?」
「確かに、序盤だと結構人来ますからね。ある程度間を開けてからの方がいいですね。」
夏祭りとしては珍しく、この地域ではパンフレットが作られる。そのパンフレットに載っている場所を照らし合わせ、都合の良い集合場所を決めた。
「じゃあここね。ちゃんと来てよー。」
「だから僕はそんなに薄情じゃ・・・・。まあ、約束は絶対守るんで。そっちこそ祭りの時までこの部屋にいそうですけど。」
「えっ、いや、そんなこと・・・・ないけど・・・・。」
うん?と僕は首を捻った。
「えっ、ほんとにいるつもりだったんですか?」
「い、いやー、そんなことないよ。というか早く帰りなよ。また下校時間だよ。」
僕は彼女に押されるようにして部屋を出された。ドアから出る白い手だけがひらひらと動いている。
「あはは、さようなら。」
夕日が差す廊下に僕の声が響いた。多分、彼女の元には届いていないだろう。けれど届いていなくてよかったと、僕は何故か安心した。普通に接せれたからなのか、一緒に祭りに行けるからなのか、はたまた別のものか。
嬉しさに纏う小さな淋しさは、一体何なのだろうか。
僕はそれを知る由などなかった。
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