チョコレートコスモス
皇帝ペンギン
恋の思い出
自分の平凡さが嫌になることがよくある。
頭がいいわけでもなく、逆に運動神経がいいというわけでもない。漫画に出てくる主人公のように顔立ちも整っていないし、性格も良いわけでない。家族ももちろん例外でなく、広く世間で言われる『普通』の家族じゃないかと思う。
漫画や小説で言えば、モブBのような、名前もなくこれといった役割もない量産型のような人物。それが僕である。
ともまあなんとも面白くない自分語りをしていると、中央の教壇に立っていた担任が日直に礼をする様に促した。先程まで浸っていた脳内から平凡な現実へと引き戻される。
「起立〜、気をつけぇ〜れい。」
僕も周りのクラスメイトも一ミリも気持ちのこもっていない『ありがとうございました』を言った。時々この制度は必要なのだろうかと思ってしまうほど儀式的なものだ。意味よりもカタチが残って、どの学校でも不思議な伝統になっている。
「―――― 今日ラーメン屋行く〜?」
耳にタコができるほど聞き飽きた高い声で僕の名前が呼ばれた。変わらないなあと思いつつ、その声の主へと振り向いた
「ごめん。今日は委員会があってさ。多分遅くなっちゃうと思う。」
「なんだ〜、めっちゃ暇じゃん。私も委員会入っとけばなあ。何委員会だっけ?」
「栽培委員だよ。クラス内でじゃんけんで負けたの。というか別に、暇じゃないし。」
そっか、じゃ先の帰ってるわ〜。そう言って彼女は教室を出て行った。彼女、長谷川奈津とは出会ってはや十数年。幼稚園からの幼馴染で、なんの縁か分からないが高校まで一緒に進学した。いろいろ面倒臭いところがあるが根はいい奴で、交友関係の少ない僕にとって唯一の女子の友達だ。
「さてと・・・・。」
栽培委員会の集合先の部屋に向かうことにした。クラス内の男女一人ずつの栽培委員だが、もう一人の女子はもう先へ行ってしまったようだ。
僕の通っている高校の校舎は、昔あった校舎と増築した校舎がある。向かっている部屋は古い方の校舎にあり、今いる増築された方の校舎から遠い。もっと作りはどうにかならなかったのかと愚痴を漏らしつつ向かうことにした。
運動不足の僕を襲ってきた階段をなんとかクリアしてその指定された部屋に入った。部屋の前にある扉を開けると、そこには何人かの生徒がいた。
「アレ・・・・?」
あまりにも人数が少ないことに僕は驚いた。一学年三クラスだから、普通は十八人くらいはいるはずなのに。疑問に思っていると、ギイと音を立ててドアが開いた。違う生徒が来たのかと疑問に思ったが、来たのはこの栽培委員会をしきる先生だった。
「あちゃあ、今日は人が少ないねえ。事前に言ったと思ったんだけどなあ。そうだなあ・・・・、これじゃあ活動出来ないし、後日にまた来てください。放送とかで呼び出すかもだから。」
じゃあ解散ねー、とやる気なく言い残し、先生は出て行った。なんだよ。これじゃあラーメン食いそびれただけじゃないか。まあいいや、一人で食べよう、とポジティブな思考に脳を切り替えることにした。
帰ろうとすると、ちょうど筆記用具を出してしまっていたのでカバンに戻そうとした。
その時だった。
ガチャッと音が鳴って筆箱ごと地面に落ちた。僕も他の誰も触っていないのに、誰かが触ったように動いたのだ。空いている窓から風が吹き込んだのかと思ったが、風は感じられなかった。
ぞろぞろと出て行く生徒たちはその音が聞こえなかったのか、皆足を止めない。周りをキョロキョロ見ているうちに、部屋の中には僕一人が残った。
もう一度、その窓際に目をやる。
淡く、けれど深く色付いた黒紫の花が、少し不細工な花瓶に添えられている。ゴミは落ちておらず、水も張っている。ほこりも被っていないことから、多分この花は最近持ち込まれたのか、はたまた手入れ好きな人が面倒を見ているのかと予想がつく。だが花を見ているうちにそんなどうでもいい考えはすぐに立ち消えていった。
その美しさと花が纏う妖艶さにしばらく見惚れていた。言葉にしようとしても出てこない気持ちに、僕はもどかしさを感じた。太陽に向かって堂々と咲く姿は、ただただ美しいとしか喩えようもないほどに。
白いカーテンが吹き上げられたのと同時に、そこらに積み上げられていた本やら書類に降り積もっていた埃が吹き飛ばされた。そして、風がのせてきた花の強烈な匂いに、僕は驚いた。
「これ、チョコレートの匂いがする・・・・!」
比喩でもなく、はっきりとチョコレートの匂いがしたのだ。高いチョコレートを食べたことのない僕でも分かる、芳醇で甘い、今までに嗅いだことのないくらいの濃い匂いが部屋の中を包み込んだ。あまりにも衝撃的で、だが僕の好奇心は抑えられずもっと嗅ごうと目を閉じて深呼吸した。鼻腔に届く香りはあっという間に全身に届いていく。
「っ・・・・?」
何かが僕の目の前を横切った気がした。
ハッと目を開けると、そこにはさっきの黒紫の花が見つめているだけだった。
「・・・・なんだ、気のせいか・・・・。」
「気のせいじゃないよー。」
僕の背後から返事が返ってきた。すぐさま後ろを振り返ると、この高校の制服を着た女の子が立っていた。
「!?・・・・今、どこから・・・・?」
ドアが閉じた音も聞こえたし、逆に空いた音も聞こえてきていない。隠れるようなスペースもなく、けれど何故かこの密室にいた。
「・・・・先輩ですか?今日は委員会、なくなりましたよ。」
驚きを隠し平然を装いつつ、今日は委員会がないことを伝えた。僕が彼女のことを先輩と言ったのは、彼女の顔立ちと雰囲気が大人びていたからだ。長くストレートの青みがかった黒色の髪で、目鼻立ちはテレビに出てくる芸能人のように整っており、身長は高く、足はモデルのような長さ。こんな人がいたら学校中話題になっているはずなのだが、そんな話は一切聞いたことがない。
「ああ、そうなの。じゃあそういうことにしとこうかな。」
可憐な声で話す彼女は少し戸惑った素振りを見せたが、すぐに顔が変わった。にまにまと口を緩ませている彼女は、鳥のようにトンっと僕の元に歩んできた。
「君の声、もっと聞かせてよ。」
「は?」
あまりの素っ頓狂な頼みに思わず間抜けな声を出してしまった。
「え?どういうことで・・・・」
多分、今の僕の顔は「何を言っているんだこいつは?」みたいな顔をしているだろう。その顔を見て、彼女も大きく笑った。
「なにその変な顔!あはは、ちょっと待って・・・・」
その場で腹を押さえる彼女に少しムッときた。そりゃあ誰だってあんな変な質問をされたら戸惑うだろう。
お腹をさすりながら、彼女は僕のいる窓際近くまで寄ってきた。そのまま彼女はその窓枠に腰掛けた。
「ちょ、先輩危ないですよ。」
自分の弟が一回窓から落ちたことがあった。幸い二階の、しかも下が芝生の家の庭に落ちたので大事には至らなかったが、その光景を目の当たりにした僕には完全なトラウマになっていた。
僕は反射的に彼女の手を掴んだ。すべすべとした肌は、手を握っているだけなのに心地良さを感じるほどに綺麗な手だった。
「大丈夫だって。ほら、そんなことより風が気持ちいいよ。後輩くんも浴びようよ。」
掴んでいた手を逆に掴まれて、僕は窓の方に引っ張られた。八月の終わりの今は暑いが、風が心地よく吹いていて、室内のじめっとした空気を吹き飛ばしていく。彼女が言った通り、たしかに気持ちよかった。
「いいでしょ、ここ。私が一番気に入ってるんだ。日当たりもいいし、何より風が吹く。こうやって感じれるのも、やっぱりいいね。」
意味深なことを言う彼女は、グラウンドに備え付けられている時計を指さす。
「ほらもう六時だよ。門が閉まっちゃうよ。」
夏になって日が伸びていたことを失念していた。サッカー部の男子は皆早足で学校を去っていく。背負っていた重そうな荷物は土と埃で茶色っぽくなっていたが、彼らの努力を物語っていた。
「やばい。こんなことしてる場合じゃなかった。ほら先輩も早く帰りましょうよ。」
そう促したが、彼女は首を縦に振らなかった。
「もう少しここにいたいの。後で帰るから、先に帰ってなよ。」
「いや、でも・・・・。」
「ほら、他の人に見られたら『そういうふう』に見られちゃうでしょ。早く帰った帰った。」
彼女の言った『そういうふう』にドキッとした。恋愛関係にあるのだろうとでも思われたら、多分学校全体の、特に男子に恨まれるだろう。
恥ずかしがっている僕とは違い、彼女はそんな素振りすらも見せなかった。恥ずかしさを隠すために苦笑いを作る自分がみっともなく感じる。
「ねえ・・・・!」
「はい・・・・?」
急いで帰り支度をしていると、彼女から声をかけられた。振り返ると、彼女は後ろで手を組み、戸棚に体を預けていた。
「またさ、暇ならきていいよ。」
「別にひ――――
暇じゃない。
そう答えようとしたが、僕はすぐに口を閉じた。言葉とは裏腹に、彼女の目だけは笑っていなかったからだ。事情は一体なんなのかは僕には知る由もなかったが、彼女はからかいでも冗談のつもりでも言ったつもりはない。そう断言できた。
「まあ・・・・きっと来ると思います。実際暇ですし。」
僕の返答が良かったのだろうか、彼女はうんうんと大袈裟に頷くと、すぐに顔を綻ばせた。先程の表情が嘘のように感じるほど変わる。なんだか猫みたいで、僕はクスッと笑ってしまった。
「なに?何かおかしい?」
「いえ、なんでも・・・・。お先に失礼します。」
帰ることを理由にして僕はそそくさと部屋を後にした。後ろから「明日覚えておきなよ〜!」などと聞こえてくるが、そんなことはお構いなしに早足で逃げた。
走ったせいなのか、心臓が早く脈打つ。自分の体全体に血が巡っているのがわかるぐらいに。手や足先が凍えるように冷たいが、頭は沸騰しそうなほどに熱い。
普通の高校生の、不思議な恋のおはなし。
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