最終話 最北の村のクマさん
雪が降らなくなり、積もった雪は溶け、若葉が顔を出す。
北海道にも、色鮮やかな季節がやってきた。
雪かきの必要がなくなってからの朝の時間は、二人で家の周辺を散歩するのが日課となった。
「ゴールデンウィークも終わって、五月半ばだというのにこの寒さ。さすが最北だねー」
隣を歩く千波が、どこか嬉しそうに呟く。
雪夜の出会いからもうすぐ半年。彼女のまとう空気は、随分柔らかくなった。
「今日は曇ってるから、気温は上がらないな」
「東京の冬と同じぐらいだよね。春でこれなら、夏はどんな感じ?」
「平均気温は二十三度ぐらい。暑い日もあるけどな」
「耕平くんの暑いはきっと、私には大丈夫な気がする」
千波の小さな手を握り、のんびり歩く。
すっかり耕平を信頼して身を預け、キョロキョロ視線をさまよわせる姿が愛おしい。
「なんだかね」
「ん?」
足を止めた千波が耕平の前に立ち、顔を上向ける。
千波に両手を握られた状態で、耕平は愛しい女性を見下ろした。
「会ってからずっと、毎日、耕平くんは私の話を聞いてくれたでしょう? 暗い話も、私の性格の悪さがにじみ出たような話も、全部」
千波が何を考えながら生きてきて、どう感じるのか。
会話は、相手を知る行為だから。
「千波の話聞くの、俺は好きだよ」
耕平の視線の先で、花が綻ぶように、千波が笑う。
「溜め込んでいたものを吐き出したからか、最近、心が軽いの」
「デトックスってやつ?」
「そうかも。悪いものを吐き出して、優しい何かを取り込んでる気がする。私、ここへ来てよかったなって思ってるの。そう思えるようになったのは耕平くんのおかげ。あの時会ったのが耕平くんだったから、全てが好転したっていうか……だからね、ありがとうって、伝えたくなった」
照れ笑いを浮かべた千波はつないでいた手を離し、一人で歩きだす。
千波の背を追いかけ、耕平は隣に並んだ。
「初めは、ヤバいやつ拾ったって思ったけどな」
「そう思ってるんだろうなーって、感じてた」
「これからもっと、楽しいこと教えてやるから」
「たとえば?」
「ジンギスカンは外せない。また雪が降り始めるまで、みんなでバーベキューをたくさんやるんだ」
「福ちゃんからもね、誘われたよ。動画完成記念でバーベキューやるんだって」
「仲良くなったんだ?」
「Qマートでたまに会うんだけど、会えば必ず世間話をするぐらいには」
「そっか」
「楽しいこと、バーベキューだけ?」
「いや、まだまだたくさん。……地平線を見に、ドライブに行こう。両側が牧草地で、オホーツク海と空が青くて気持ちいいんだ」
「うん。行く」
「夏には祭りがある。花火も上がる」
「楽しみ」
「新月の晩には、星空を見上げよう。キャンプもするか? それと、カヌーでも乗りに行くか」
「カヌー? 乗ったことない。行きたい! キャンプも面白そう!」
「結婚式はきっと大騒ぎだ。伸行が張り切ってるからな」
「楽しみー」
「退屈だなんて考える暇は、きっとない」
「耕平くんとだと、未来の想像が明るくて、幸せ」
「千波といると、毎日が楽しいよ」
「それは光栄だな。すごく、うれしい」
緑に囲まれた朝の清々しい空気の中で、顔を見合わせて微笑み合った。
※※※
人口三千人に満たない、最北の村。
そこには、熊のように大きな体を持つ作家が暮らしている。
「ねぇパパ。ママは、雪の妖精さんだったって本当?」
書斎の扉が開き、顔を覗かせた二つの小さな人影。
「だから違うって言ってるだろ。平塚にも家があるんだから、お母さんは人間なの!」
「お兄ちゃんは黙ってて!」
幼い兄妹が駆け寄ってきて、パソコンに向かっていた父親の膝へと抱きついた。
「ニーナが変なこと吹き込んだんだ。お父さんはキムンカムイの化身で、うちのお母さんはカムイに見初められた雪の妖精だって。アオイってば、それを真に受けちゃってさー」
「だって、パパの昔の写真はたくさんあるのに、ママの写真はパパと一緒のしかないでしょ? それってなんでかなって思ったんだもん」
「新菜か。面白いことを言うな」
子どもたちの頭へ片方ずつ手を乗せ、父親はとても愉快そうに笑う。
「千波の写真は、平塚の家にたくさんあるぞ。お盆に遊びに行ったときに見せてもらおう」
ほらなとでも言いたげに、兄が妹へ視線を送った。
妹はふくれっ面を作り、不満げに父親を見上げる。
「パパとママのなれそめは?」
「馴れ初め? 葵は難しい言葉を覚えたな」
父親は、もうすぐ六歳になる娘の発言に目を丸くしてから「そうだな」と呟き、おもむろに子ども二人の体を持ち上げて膝に乗せ、パソコンデスクの上に置かれていたタブレットを手に取った。
「これは結婚式の写真な。これ見たら、雪の妖精なんて言われても納得しちゃうよなぁ」
「これママ? すごーい! きれーい! お姫さまみたい!」
「それで、馴れ初めは?」
「なんだ、
「まぁ、気になるしょや」
「千波は? 二人で帰ってきたのか?」
「ゴミステーションのとこで、古本のおばあちゃんに捕まってる」
「置いてきたのか。かわいそうに」
「だってね。アオイたちがママの正体知ってるってバレちゃったら、ママ、いなくなっちゃうかもしれないでしょう?」
娘の発言に、父親が首を傾げて考える。
「雪女の昔話か?」
昔話では、夫が昔出会った雪女について話してしまったことにより、正体を隠して妻となっていた雪女が、二人の間に産まれた子どもを残して雪山へ帰ってしまうのだ。
「雪女と雪の妖精はきっと違うし、お母さんは僕らを置いていなくなったりしないって言ってるのに、アオイってば信じないんだ」
「なるほどな。お母さんは人間だし、お父さんと真和と葵を残していなくなったりなんてしないぞ。絶対にな」
「ほらな。お兄ちゃんの言ったとおりだろ?」
タブレットの画面をすいすい操作して一人で写真を見ている妹に視線を向けて、兄が苦笑を浮かべる。
「アオイ。結婚式の写真に夢中になってないで、お父さんの話聞かなくていいのかい?」
「聞くー!」
無邪気に顔を輝かせている娘の頭を一撫でして、父親は、昔を懐かしむように目を細めた。
「千波と俺の馴れ初めかぁ……これ話すと、また雪の妖精じゃないかってことになりそうだけど、まぁいいか。十二月の初め、雪の中で拾ったんだ」
「ほらやっぱり! ニーナちゃんの言うとおり!」
「お父さん、嘘はダメだぞ? 人間は落ちてるような物じゃないんだから」
「落ちてたんだよ」
「うっそだぁ! ……でも、お母さんってたまにぼけぼけだから、ありえるかも?」
「千波は車で一人旅してて、雪の中でガソリンがなくなって、困ってるところを俺が助けたんだよ。それでお父さん、すっかり惚れちゃってさ。お父さんが頑張って口説いたおかげで、
「きゃー! パパ、情熱的ね!」
「お父さんがお母さんにべた惚れなのは知ってるよ!」
玄関のほうで音がして、開いたままの書斎の扉へ向かって静かな足音が近付いてきた。
ひょこりと顔を覗かせたのは、小柄な女性。
「こら二人とも。パパのお仕事の邪魔したらダメでしょう?」
「ママがお姫さまの写真見てたのー」
「お姫さま?」
歩み寄ってきた母親が三人の背後へ周り、後ろからタブレットの画面を覗き込む。
その隙をついて、夫の唇が妻の頬へと触れた。
「もう、お父さん! 子どもの前だぞ!」
「本当だよ、耕平くん」
「
「いらないよ! 僕、もう小学生なんだからね!」
「アオイはちゅーするよー」
父親と母親の頬にキスする妹を見て、嫌な予感を感じた兄が、父の膝から逃げ出そうともがく。
「照れるな照れるな」
「お母さんならまだいいけど、お父さんはなんかやだ!」
「え? 父ショック」
「アオイはパパだいすきー」
「ぼ、僕だって好きだよ! でも、ちゅーはしないからな! 恥ずかしいよ!」
書斎から逃げだした息子の背を見送ってから、大きな体の男と小柄な女が顔を見合わせ、柔らかな笑みを浮かべた。
「かわいいね、うちの子」
「本当にな」
幸福は、雪のように溶けることなく、日々降り積もっていく――。
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