第26話 東京ふたたび(SIDE千波)
髪が伸びてベリーショートではなくなった千波は、羽田空港に降り立ってすぐ、鼻がむずむずし始めたことに気が付いた。
「……花粉を感じる」
呟き、千波は自分の目を両手で覆う。ただの気休めだ。
北海道ではまだ雪が降る日もあり、春を実感するのはもう少し先だったため、すっかり油断していた。
空港から外に出たらきっと、目と鼻が大変なことになるだろう。
「あらまぁ。千波ちゃん、花粉症かい?」
花粉が飛散する東京の地でも、変わらず明るく元気な耕平の母――文子に問われ、千波は頷いた。
「鼻がむずむずしてきちゃった。マスク買ってくるね。ついでに薬も買ったほうが良さそう。お義母さんたちは、ここで待っててくれる?」
「お母さんも一緒に行きたいわ。羽田空港の中をうろうろしたいの」
「私らもマスクしたほうがいいんでない? 道民も、東京行くと花粉症になるって聞いたよ」
「じゃあ、カエデさんたちの分もマスク買いましょうか」
「待って千波。親父とおんちゃんが立ち止まって何か見てる」
「したら耕平、男たちはここで待ってなさいな。私らは千波ちゃんと買い物してくるから」
「カエデさん、そっちじゃないです。こっち」
「あらやだ」
千波の腕を取って見当違いの方向へ進もうとした女性は、耕平の伯母、中尾カエデ。
千波と耕平は、耕平の両親と伯母夫婦と共に、両家の顔合わせと観光をする目的で四月の東京に降り立った。
新学期が始まったばかり、ゴールデンウィークはまだ先で、比較的航空券が安いという理由でこの時期になったのだが、毎年あれだけ悩まされていた花粉のことを失念していた。
マスクと薬を手に入れた後で、最初に向かうのはホテルだ。アーリーチェックインを利用して、身軽になってからは月島へもんじゃ焼きを食べに向かう。
耕平の伯母夫妻は息子が蒲田で一人暮らしをしているため、息子の家に泊まることになっている。その関係で、合流がし易いようにと、千波たちも蒲田に宿を取った。
「昨日までは雪を見てたのに、今日は桜吹雪の中にいるのって、変な感じ」
食後の運動がてらの、隅田川沿い散歩。
不織布マスクを装着した千波の呟きに、隣を歩く耕平も同意する。
「本当にな。気温差で脳みそバグる」
「温かいね。春だねー」
「ゴールデンウィークが終われば、村でも桜が咲き始めるぞ」
「倫子さんが、桜が咲いたらバーベキューやるけんねーって言ってたよ」
「いつものメンバーで集まって花見するの、毎年恒例なんだ。うまい肉が食えるぞ」
「バーベキューかぁ、あんまりやったことないな。楽しみ」
舞い散る薄紅色の花吹雪の中、手をつなぎ微笑み合う二人を、耕平の両親と伯母夫婦が柔らかな表情で見守っていた。
*
通勤ラッシュに巻き込まれない時間に蒲田へ戻り、夕飯は、中尾夫妻の長男と合流して居酒屋で食べた。
「これうちの長男。エンジニアとかいうのをやってるらしいわ」
「はじめまして。中尾健史です」
中尾は耕平の父方の姓で、カエデの夫は婿養子。
中尾夫妻には子供が二人いて、耕平より六つ年上の長女は旭川で結婚して子供がいる。そちらとは先月、旭川へ行き挨拶を済ませていた。
「耕平もついに結婚かー。過疎化の村にこもってるお前に先越されるなんて、ますます旭川での俺への風当たりが強くなるじゃないか」
「タケ兄だって、付き合ってる人いるだろ?」
「いるけど、結婚はしないと思う」
「なして?」
「彼女、したくない人なんだよ。そういうのもダイバーシティで、現代の形なのかもな」
「全く東京かぶれは、すーぐに横文字使うんだから」
「意味がわからないからって母さんはすぐ拗ねるんだからなー。多様化の時代なんだよって言ったの」
「したら、そういえばいいっしょ!」
健史は耕平の三つ上。日本人の平均的な身長で、中肉中背だ。
耕平の大柄な体型は森野家の血筋らしく、耕平の父の義光と母の文子は別段高身長なわけではないため、隔世遺伝らしい。
「しっかしお前は相変わらずデカいよなぁ。千波ちゃんが小柄でほっそりしてるから、余計に体格差がヤバいな。千波ちゃん、耕平と暮らしてると首痛くならない?」
「家の中では、耕平くんは基本的に座ってるので大丈夫です。でも家の収納が全部耕平くん仕様だから、そこはちょっと大変ですけど」
「高い所の物は俺が取るって言ってるだろ」
「でも、それってなんか悔しい」
「したっけ、これからは肩車でもするか?」
「椅子の上に立つから、いい」
「千波、落ちたらすぐ骨折しそう。心配だからやめて欲しい」
「スノボーであれだけ転んで骨折らなかったんだから、大丈夫だよ」
「千波が俺を呼ばないなら、家の中全部、千波の高さに合わせてリフォームする」
「お金の無駄遣いは嫌いだよ」
ぺしりと可愛らしい音で千波の手に胸元を叩かれた耕平は、傍目から見てもわかりやすいほどの緩んだ顔で笑う。
「なんか君たち、いいコンビっぽいな」
婚約おめでとうという健史の言葉を合図に、もう一度乾杯をした。
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