第25話 クマさんとはじめての(SIDE耕平)
腕の中にいる千波の顔を、恐る恐る覗き込む。
「……耕平くん」
ビクリと肩を揺らして、慌てて姿勢を正した。
俯いている千波の右手が、握るようにして自分の胃へと押し当てられる。
「胃が、痛い」
「やっぱり? 顔色悪いような気はしてた。薬、いるか?」
千波の体を抱き上げ、ソファへと運んだ。
薬はいらないが胃を擦ってくれと頼まれ、耕平は千波を膝に乗せて座り、言われたとおりにする。
「修羅場になるかと思った。びっくりしたー」
全体重を耕平に預けた千波が、弱々しい声で告げた。
「俺も焦った。智之から連絡があって、金曜のことは聞いてたんだ。だけど直接告白されたわけでもないのに何か言いに行くのも、どうなんだって思ってさ」
「福ちゃんの気持ち、気付いてた?」
「いや、全く。智之が言うには、協力隊のメンバーは察してたらしいけど」
「うん。ミーティングの時、そんな気配は感じたよ」
「俺、鈍感?」
「これまでの二人の様子を知らないから、私にはわからないよ」
目を閉じていた千波がゆっくりと瞼を持ち上げ、耕平を瞳に映す。
冷たい人差し指が、むにりと耕平の唇を押した。
「食べちゃったね、バレンタインチョコ。しかも手作り」
「倫子さんのだって手作りだっただろ?」
「あれは友チョコ。さっきのは本命」
「……吐き出すか?」
「おバカさん」
くすくす笑って、千波はまた目を閉じる。
「あんなにスラスラと、咄嗟に言葉が出てくるなんて、すごいね」
「形のないものを言語化するのが仕事だからな。得意分野」
「恥ずかしかったけど、嬉しかったよ。ありがとう」
「俺がどれだけ千波を愛してるか伝わったなら、よかったよ」
「正妻の余裕を、最後まで貫けたらよかったんだけど」
冗談っぽく吐かれた千波の言葉は、今のこの状態を言っているのだろう。
もしかしたら千波は、金曜からずっと、モヤモヤしたものを一人で抱えていたのかもしれない。
「千波はさ、隠して溜め込むから。だからこうして体のほうが、気付いてくれって悲鳴を上げるんだよ」
「年下の子相手に、感情をぶつければよかった?」
「俺のほうに、ぶつけてよ」
「んー……善処します」
「無理なやつだな、それ」
「耕平くんの、モテ男」
「それ悪口?」
「イケメン風」
「風ってなんだよ」
「耕平くんがクマさんだから、ヒグマに会っても恐怖を感じないかもしれないじゃん」
「パニックになって大声出したり走って逃げだすのは最悪な行動だけど、自分から寄って行ったりするなよ。絶対に」
「北海道に行こうと決めてから、ヒグマについても調べたよ。なんだっけ? アイヌの、ヒグマの神様」
「ああ。キムンカムイ?」
「それだ。耕平くんは、私のきむ……まぁ、クマさんの神様なんだよ」
「アイヌはヒグマ食うよ。血肉を食うことで、カムイの力を得るっていう考え」
「カムイは、なんだっけ?」
「神様。キムンは山。熊は山の神様なんだ」
「へぇ。耕平くんは森のクマさんだから、違うか」
「それ、名字なだけだろ」
「まあいいじゃん。要は、神様に等しいほどの存在だよってことが言いたかったの」
「俺は人間として、千波の夫になりたい」
「私も、人間の耕平くんの奥さんがいいな」
伸びてきた千波の両手に、頭を引き寄せられた。胸元に顔を押し付けるようにして抱えられ、髪を撫でられる。
「神様じゃ触れ合えないもんね。……癒やされる」
安堵の吐息を、千波は漏らす。
千波のため、しばらくこのままでいてやりたい気持ちはあるのだが――
「この体勢、ちょっとつらい」
「ごめん」
すぐに、手は離れてしまった。
膝の上で千波がもぞもぞと動き、姿勢を変える。
すぐにまた、千波は耕平の頭を抱えた。耕平の腿を跨ぐようにしてソファの上で立ち膝になった千波の右手が、後頭部を撫でている。
「福ちゃんとは、仲良いの?」
細い腰に両手で触れて、耕平は千波に身を委ねた。
「妹みたいに、かわいがってはいたよ。シロさんって、もう一人女の人がいるんだけど」
「藤代さん?」
「そう。女の人は、男より大変だと思う。おばちゃんたち、悪気はないけどお節介だから」
結婚はしてないのか。どこどこの誰それが独り身だからお見合いしてみないかなど、悪気のないお節介はよくあるのだ。
「シロさんも福ちゃんも上手いことやってるけど、知り合いのいない土地での生活って、不安とかいろいろあるだろ? せっかくうちの村を選んで来てくれた人たちなんだから、力になりたいって思うんだ」
「なるほどね」
「でも、こういうことになるのなら、これからは――」
程よく距離を置くべきかもしれない。そう言おうとした耕平の言葉を、千波が「ダメだよ」と遮った。
「それはダメ。耕平くんは、何も変わらなくていいよ。今までどおりで大丈夫」
「福ちゃんの件は、俺の態度も原因だったかもしれない」
「でもね、きっと彼女、それに救われたかもしれないよ。私と同じように」
「でもさ、千波に余計な心配かけて、千波が胃痛で苦しむ結果になったら、俺は嫌だ」
「これでも、東京にいた時よりかなり良くなったんだよ。耕平くんと一緒にいたら、そのうち完治するかもね」
「今は、まだ痛い?」
「ううん。話してたら楽になった。メンタル弱っちくてごめんね」
「謝らなくていいよ。千波は何も悪くない」
膝立ちが疲れたのか、千波が力を抜いて、耕平の脚の上に座った。同時に耕平の頭から手が離れ、頬に触れていた柔らかな感触も離れる。
白い両手が耕平の胸元へ添えられ、まるで心臓の音を聞くようにして、千波の頭がもたれかかった。
「アイス、どうしようね。明日にする?」
「やだ。今日食べる」
「甘い物ばかり、体に悪いよ」
「なら夜。食後のデザートにしよう。運動すればいいだろ」
「筋トレ?」
「いや……滑りに行くか。スキー場、確かまだギリギリ営業してるかも」
「スキーしてる耕平くん、見たい!」
「俺がやるのはボードだけどな。千波も、ウェアとか全部桃子に借りられると思うぞ」
「怪我する予感しかない」
「初級コースしかないし、教える」
「私は見るだけでいいよ?」
「とりあえず、桃子に連絡しよう」
ウェアは結局桃子のお古をもらえることになり、千波はお礼に手作りアイスを渡していた。
千波の人生初滑りは、何度も転びはしたものの最終的には上から下まで滑りきれるまでになり、頬を紅潮させて楽しんでいた。
帰宅後は、筋肉痛と打ち身に苦しむ千波を、耕平が介抱して過ごす。
出会ってから初めてのバレンタインデーの夜。
風呂上がりに食べた千波お手製のチョコレートパフェはとろけるように甘くて、幸せの味がした。
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