第24話 ガトーショコラ(SIDE千波)

 締め切りに余裕がある時の耕平は、土日に仕事はしない。

 千波が来る前は曜日を気にせず書斎にこもる生活だったらしいのだが、今は千波に合わせてくれているようだ。

 迷惑になりたくないから気にしなくていいと伝えたが、千波とのんびり過ごす時間が欲しいのだと、耕平は微笑む。

 その表情を見ると千波は、どうしてこんなにいい男が売れずに残っていたのかと不思議に思ってしまうのだ。


 彼の身近にいた女性たちは何をしていたのか、理解に苦しむ。


「どう? 固まった?」


 冷凍庫を覗いていた千波の背中へ、大きな体がぴたりとくっついた。


「いい感じ」

「いつ食う? 今?」

「チョコレートパフェにしようと思うの。だからおやつの時間かな。でも、少し味見しちゃう?」

「めっちゃ食いたいけど、楽しみにとっておこうかな」

「耕平くん、アイス好きだよね」

「暖房が効いた家の中でアイス食うのは、北海道の冬の常識」


 前の日に冷凍庫へ入れておいたのは、チョコレート味の自家製アイスクリームの素。初めて作ったが、かなり簡単で驚いた。

 風呂上がりに耕平がアイスクリームをよく食べているから、どうせなら、同居だからこそ贈れるバレンタインチョコレートを作ることにしたのだ。


 日曜は、雪かき以外の家事はしない。

 二人でのんびり、映画を観たり本を読んだりして過ごす。最近千波は、耕平が書いた小説を読むのにハマっている。


 リビングのソファに並んで座り、千波は耕平の肩に寄り掛かって小説を読む。

 隣で仕事の資料だという本を読んでいた耕平は、いつの間にか目を閉じていた。

 そうしてのんびり過ごしていたら、インターフォンが来客を告げる。

 読み途中の本に栞を挟み、千波は立ち上がった。


「荷物の予定とか、ない。俺行く」

「今まで寝てましたって顔してる。誰が来たのか、見てくるよ」


 手のひらで顔を擦っている耕平の髪を撫でてから、来客の確認へ向かう。


 画面に映った人物を見て、思わず千波の顔が強張った。

 すぐに玄関へ向かい、ドアを開ける。


「選ぶのは森野さんだと仰いましたよね? だから、選択肢に入れてもらいに来ました」


 そこにいたのは、田福だった。


「福ちゃん、なしたの? 今日、集会か何かあったかい? 俺なんか忘れてる?」


 千波の背後で、耕平が戸惑いの声を上げる。


「とりあえず、中へどうぞ。温かい飲み物を淹れますから」

「せ、正妻の余裕ですか! 負けませんから!」


 余裕なんてあるわけがない。だけど千波は何も答えず、踵を返して台所へと向かった。飲み物を用意したら、どこかへ行って時間を潰すべきなのだろうかと考えながら。


「森野さん。今日が何の日か、ご存じですか?」


 頬を赤らめ、緊張した様子で耕平を見上げる田福の姿を、千波は台所からぼんやり眺める。


「日曜日だな?」


 答えながら耕平が、家の中に入りはしたが土間に立ったままだった田福を促し、靴を脱いで上がるようにと促した。


「曜日の話ではないです。今日は、バレンタインデーです」

「あぁ……うん。そうだね」

「ガトーショコラを作ったんです。三人で食べませんか?」

「なしてうちなの? シロさんとか、ケンちゃんたちとは食べないの?」

「そ、それはですね」


 確認せず、千波は黙って珈琲を淹れた。役場でのミーティングの時に、田福が珈琲をブラックで飲んでいたのを見たからだ。


「私、外に行きますね」

「え? ダメです!」

「千波はここにいろ」


 気を使ったのだが、何故か二人に止められる。

 耕平に手を引かれ、珈琲を置いたダイニングテーブルで、千波は耕平の隣に座らされた。

 田福は、二人の向かい側に腰を下ろす。

 深呼吸を数回繰り返した後で、田福が口火を切った。


「私、森野さんが好きです。一年前から好きでした。今年のバレンタインに告白しようと思ってたのに、突然チナさんが現れて……。納得できないんです。私じゃダメですか? 私が、森野さんのお嫁さんになりたいです」


 千波は黙って成り行きを見守る。

 耕平は、右手の平で自分の首筋を擦った。動揺しているようだ。


「福ちゃん、今年で三年目だっけ?」

「そうです。この一年で任期が終わります。ここで仕事を探すつもりで、動いてます」

「はっきり、言っていい?」

「はい。お願いします」


 耕平の右手が伸びてきて、千波の左手を握った。


「千波に会う前に言われてたらどう答えたとかは、今の俺にはわからない。真剣に検討はしたと思うけどね。だけど、今の俺には、この人だって決めた人がいる。千波がいいんだ。千波じゃなきゃ、ダメなんだ。俺はこの人を愛してる」


 泣きそうなのをぐっと堪えて、田福は縋るように、言葉を吐く。


「千波さんのどこがいいんですか? 森野さんとは、タイプが全然違うと思います」

「んー……千波は結構ひねくれてるし、自分のことを悪く言うのは、聞いてて悲しい。でも好意とか、伝えなきゃいけないことも迷わず口にしてくれるんだ。それに、結構人を見てる。だからこそ、わざと調和を乱すことも、場を乱さないことも選べる人。何より笑顔がかわいいし、楽しそうなことを見つけると顔が輝くのとか見てると、もっと喜ばせたいって思う。一緒に飯食ってるとさ、ほんと幸せそうに笑うんだよ。ただの食事が、千波とだと特別になる。あ、あと、怒ると半目になるんだけど、その表情もまた可愛くて。物静かそうなのに、結構おしゃべりなんだよな。独特な価値観を持ってるのも興味深い。根は素直で、だからこそ他人を警戒してるんだろうけど、それがなんか猫みたいっていうか。消極的かと思いきや意外と行動派で、見てて飽きない。それと――」

「耕平くん。もういい!」


 慌てて立ち上がった千波が耕平の口を右手で塞ぎ、口を塞がれた耕平の瞳が千波を映す。

 真っ赤になった千波と、平然とのろけて見せた耕平。

 二人の向かい側では田福が――声を立てて笑いだした。


「付け入る隙は、なさそうですね」


 ふぅと息を吐いた田福は、コーヒーカップを手に取り、少し冷めた珈琲をすする。


「ごめんなさい。私、前に進みたくて。自己満足のためにフラれに来たんです。でも、おかげですっきりしました」


 机に置いてあった皿のラップを外し、ガトーショコラを一緒に食べましょうと田福は告げた。


「シロ姉さんに教わって、頑張って作りました。食べて、消化するの、手伝ってもらえませんか?」


 泣きそうに笑う田福を見つめ、千波は耕平から手を離す。

 黙って台所へ向かい、ナイフと皿とフォークを持って戻ってきた。


「田福さんが切り分けてください」

「チナさん、どのくらい食べますか?」

「あまり多くは食べられません」

「このぐらいですかね?」

「そうですね」


 切り分けられたガトーショコラ。

 それぞれがフォークを手にして、甘くほろ苦い欠片を口に運ぶ。


「……私、なんか悔しくて。酷いことを言ってやろうと思ったんです。だから追い掛けて、言葉を吐き出してから後悔しました。そしたらチナさん、怒るわけでもなくて。選ぶのは森野さんだって。私の気持ちを察した上で、この人はそう言うのかって、目からウロコというか」


 だからもう、動いてしまえと思ったのだと、田福は告げた。


「だまし討ちみたいなやり方でミーティングに連れて行ったのに、和やかに場を収めてくれたし。黙ってるだけで聞いてないかと思いきや、意見を求められれば的確に返答するし。この人が森野さんに選ばれた人かって、なんかもう、ただただ、悔しかったです」


 大きな塊を口に押し込め、咀嚼する。珈琲で流し込んでから、田福はまた、言葉を吐き出していく。


「まさか家の中に招き入れてくれるなんて、思ってなかったですよ。無理矢理気持ちを伝えて逃げ帰る気満々だったのに、お二人はこうしてケーキの消費にも協力してくれて、なんですか! 大人の余裕ってやつですか!」

「福ちゃんのカップ、酒でも入ってた?」

「いいえ。おいしい珈琲が入ってました! 珈琲だって、なんなんですか! 聞かれてないのに好みの飲み物が出てくるって何事ですか! しかも私はブラックで、森野さんのはミルク入りって……腹立つぅ」

「紅茶のほうがよかったですか?」

「私は紅茶より珈琲で、なおかつブラック派です!」

「当たらなければ、ただの嫌がらせでしたけどね」


 皿の上のガトーショコラを完食してからフォークを置いた千波を一瞥して、田福はナイフを手に取った。

 さらに一切れ、千波の皿へと乗せる。自分の皿にも大きな塊を取り、大きな口を開けて、田福は頬張った。


「田福さんは、どうして北海道へ来たんですか?」


 横から伸びてきた大きな手が千波の皿からガトーショコラを奪い、フォークが刺さった茶色の塊が耕平の皿へと移動する様を眺めながら、千波は田福へ質問を投げ掛ける。


「私、静岡の富士市出身なんです」


 製紙工場が多くあり、独特な匂いがする街だったと、懐かしそうに田福は告げた。


「電車を降りた瞬間とか、雨の日とかに特に感じるパルプの匂い。普通は不快なのかもしれないですけど、私は好きでした。常に煙突から煙が出てて、そのせいか、雪なんか降らない街」


 田福は、高校を卒業してすぐに工場に就職したらしい。だが父が会社を立ち上げたのを機に、そちらへ移った。


「家族三人で協力して、楽しかったです。大型トラックの免許も取って、東京まで仕入れに行ったり、商談に行く父について中国にも行きました。でも、三年で潰れちゃって」


 取引先からの報酬の不払いが続き、借金ばかりが嵩んでいったのだと、淡々と彼女は語る。


「会社が倒産したら離婚するって、会社を始める時、両親の間で決めてたらしいんです。お母さんは結局、離婚は受け入れなかったけど、私はどこかで仕事を見つけないといけなくて。いっそ東京に行こうと、お父さんの知り合いを頼って東京へ出て、働きました。でもなんか、胸に穴が空いてる感じで。そんな時に職場の人が教えてくれたんです。地域おこし協力隊のこと」


 北海道を選んだのは、雪の降る街に憧れがあったから。新しく始めるならいっそ、最北へ行こうと思ったのだ。

 そして、村での行事を通じて耕平と出会い、恋をした。


「ほーんと、好きだったんですよ。体が大きいのに優しいとか、めっちゃ好み。低い声は最高にセクシーで、笑顔はかわいいし」

「福ちゃん?」

「困った時にへにょる眉も好き。……もっと早く言えばよかった。聞いてくれて、ありがとうございました」


 帰りますと勢いを付けて立ち上がった田福は、残りのガトーショコラを手に玄関へと向かう。

 突然のことに耕平と千波も慌てて立ち上がり、追い掛けた。


「あの、田福さん」

「福ちゃんでいいですよ、チナさん」

「結婚式に招待したら、ご迷惑ですか?」

「どこでやるんですか? 東京?」

「旭川が有力候補です」

「行きます。祝わせて欲しいです。これから帰って泣きますけど、それできっと、私は前に進めるので。お二人は気に病まないでくれると嬉しいです。押し付けてばかりで、申し訳ないです」


 千波は何も返答できず、そんな千波の肩を、耕平が片手で抱き寄せる。


「気を付けて帰りなよ」

「はい! お騒がせしました!」


 帰って行く田福の後ろ姿を、二人で見守った。

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