第21話 二人のかたち(SIDE千波)

 書斎の扉をノックして、返事を待たずに開けてから、中を覗く。


「帰ったよー」

「ん。……おかえり」


 集中している時の返事だったため、邪魔しないようすぐに扉を閉めた。


 エプロンを付けた千波が台所に立ってからしばらくして、匂いに釣られたのか、お腹を空かせた耕平が書斎から姿を現す。

 鍋に味噌を溶かし入れている千波を、大きな体が背中から包み込んだ。


「おかえり。いつの間に帰ってきたんだ?」

「さっき。声掛けたよ」

「俺、返事した?」

「してたよ」


 くすくす笑って、千波は答える。

 こんな時、作家の集中力とはすごいものだなと思う。恐らく耕平の意識はあの瞬間、別の世界にいるのだろう。


「ただいま」


 首だけで振り向けば、唇に触れたのはかわいらしい挨拶のキス。

 満たされた気持ちで調理に戻ろうとする千波の首筋に、耕平が顔を埋めた。


「どうだった?」

「仕事のほうは、詳細聞いて、契約書を交わしてきた。結婚式についてはね、いろんな話を聞いたよ」


 味噌を溶かし終わった鍋の蓋を閉めて、千波は体ごと振り返る。


「やっぱりモテるんじゃん!」


 抱き締めてこようとした耕平の腹へパンチを繰り出したが、全くダメージは与えられず。千波の頭上では、耕平が首を傾げた。


「何の話?」

「いるよね。女子から人気あるけど無自覚な男って」

「千波は、その逆パターンだと俺は思う」

「私は、気付いて逃げ切るタイプだよ」

「たとえば?」

「たとえば? えーっとね、中高は逃げた訳じゃないから、ノーカウントでいい?」

「聞きたい」

「甘酸っぱい恋の思い出話は、素面じゃ恥ずかしい」

「したら夕飯の後。酒飲みながら、聞かせてよ」

「耕平くんの話もしてくれるなら、いいよ」

「俺は、あんまりねぇけどな」


 夕飯を仕上げてしまおうと背中を向けた千波に張り付いたまま、耕平の唇が耳を撫でる。


「で? 千波が拗ねてた理由は?」

「耳にそういうことしながら、甘い声を出さないで!」

「赤くなるからかわいい。なしたの? なーして拗ねてんの?」

「北海道の方言ってかわいいよね。倫子さんの広島弁もかわいいけど」

「うん。それで?」

「……方言のことは全く関係ない。ただ、耕平くんのモテエピソードを聞いて、きっと耕平くんは、これからも無自覚に人を誑し込むんだろうなって。自分の想像にモヤッただけ」

「俺のモテエピソードって、何?」

「耕平くんはかっこいい。優しい。気が利く。大好き」

「ありがとう?」

「お腹空いたでしょう? ご飯にするよ」

「ほーい」


 食卓を整え、ダイニングテーブルで向かい合って座った二人は、食事をしながら他愛のない言葉を交わす。


「そうだ。倫子さんからプリンをもらったの。食後に食べる?」

「食う。この角煮、うまっ」

「これね、実は札幌のお義母さんに教えてもらったんだ」

「どおりで覚えのある味だと思った」

「ゆで卵の茹で加減もね、コツと茹で時間を教えてもらったの」

「すげぇ。最高。自分で上手く作れなかったから、この味食えるの、なまら嬉しい。ご飯おかわりしよう!」

「やろうか?」

「自分でやるから大丈夫」


 耕平の腹が満たされる様を見ていると、千波の心も満ちていく。


 食後のお茶ならぬ食後の酒の時間に、冷蔵庫から取り出したプリンを耕平へ手渡した。


「千波の、甘酸っぱい恋の思い出話は?」

「覚えてたの? 忘れていいのに」


 ソファに座って倫子お手製プリンを食べる耕平の隣に腰を下ろし、千波は焼酎のお湯割りをすする。

 自分の妙な嫉妬心が招いた結果だ。それに、隠すような話でもない。


「中学の時は、同じ部活の男の子」

「何部?」

「水泳。泳ぐの好きだったから。耕平くんは?」

「剣道」

「強そう」


 想像するだけで胸がときめく。格好よかったに違いない。


「その男の子とは特別仲が良くて、よく話してたんだけどね。ある時、会話の途中で手が触れて、軽く握られたの。それで、及川さんってかわいいよねって、言われた」

「それで?」

「それだけ。そんなこと急に言われても、どう反応したらいいのかわからないし。私は何も言わずにその場を去った」

「うわ。かわいそう」

「何年か後にふと思い出して、あれってもしかしてそうだったのかなとは思った」

「その後、彼からの接触は?」

「いやぁ……ハハハ」


 乾いた笑いが漏れてしまったのは、当時の自分があまりにも鈍感だったのではないかと思うからだ。

 その彼とは、手を握られて以降も普通に会話をしたし、気まずくなることはなかった。だからこそ、そんなことはすっかりさっぱり忘れていたのだ。

 だけど高校を卒業した後で、彼の存在を思い出す出来事があった。


「お兄ちゃんの職場に、新卒で入って来たの。同じ中学出身ってことで話が盛り上がって、妹と同学年だから『もしかして知ってる?』って、私の話題が出たらしい」


 その時、千波には恋人がいた。九年目で浮気して別れた男だが、千波にとっては初めての恋人だったため、浮かれて幸せいっぱいだった頃のこと。

 酒の席で兄が、千波に恋人がいることを告げると彼は苦く笑い、中学時代の淡い恋心を吐露したらしいのだ。

 中学生だった彼にとって、好きな子の手に触れてかわいいと告げたのは、精一杯の告白のつもりだったのだと。


「かわいそう」

「好きです、付き合ってくださいって言ってくれないと。わからないよね」

「じゃあ次。高校」

「高校はねー。高二の頃、お菓子に付いてくる指人形集めにハマってて、机に並べて遊んでたんだけど」

「何の人形?」

「アンパンマン」


 ぶはっと耕平が噴き出して笑い、千波も声を立てて笑う。

 自分で稼いだお金で欲しい物を買うのが楽しかったのだ。千波のその楽しみを、手伝ってくれたクラスメイトがいた。


「前の席の男の子。野球部だから坊主だった。全種制覇を目指してるって、私が女の子の友達に話してるのを聞いてたんだろうね。ある日その子が指人形を買ってきてくれて、そこから、かなり仲良くなった。たぶん、私は彼が好きだったし、彼も私に好意を寄せてくれてたと思う」

「付き合わなかったの?」

「うん。親友だった子にね、男に媚び売って気持ち悪いって言われて、私は彼女に嫌われたくなかったから、指人形は家に封印した」

「その親友って、前に話してた子?」

「そう。私は言ってもらわないとわからないから。はっきり物を言う彼女が好きだったし、憧れてた」


 彼女のことを思い出すと今でも胸がじくりと痛むほど、千波の中では大きな存在だったのだ。

 それでも関係の修復をする努力を放棄したのは、進む方向も見ている物も、何もかもが違ってしまったのだと、気付いたから。

 彼女は千波にとって、恋とは違う部分にある大事な青春だった。


「十八で初彼ができて、九年付き合って別れた。その間は好意を寄せられてるなって気付く度に、決定的なことを言われる前に牽制して、逃げた。浮気とか、するのもされるのも許せないし」

「したっけ、千波が今まで付き合ったのって、一人だけ?」

「いや、もう一人。職場の社員さんに告白されたことがあってね。断る理由もないし、三十路目前で結婚に焦ってたから、付き合ってみた。けど、三カ月でごめんなさいした」

「なして?」

「誰でもいい訳じゃないんだって、学んだから。いい人だったんだけどね。あのまま結婚したら多分、私はあの人を不幸にしてた」


 好きだと言われるのは心地よくて、千波も初めは舞い上がった。

 だけど時間が経つに連れ、温度差が顕著になったのだ。


 好きだよという言葉に、「私も」と返せない。

 千波と付き合えて嬉しいのだと浮かれる彼を見る度、心が重く沈むようになった。

 彼が語る二人の未来。

 俺を知って欲しいからと語られた、彼のこれまでの人生や趣味嗜好。

 他愛のない時を共に過ごせば過ごすほど、千波の中で重たい罪悪感が育って、苦しくなった。


「それ以降、婚活もやめた。きっともう、私は人を好きになれないんだと思ったの。だけど……耕平くんの隣は、居心地がいいね」


 ありのままの自分を見せても否定されない、受け入れてもらえる心地良さを知った。

 恐らくあの人は千波にこれを求めていたのだろうが、千波には、彼を受け止めることはできなかった。


「婚活を始めた頃は、利害の一致婚で構わないって思ってたんだけどね。向いてなかったみたい。耕平くんに会って、恋って理屈じゃないんだなって、思った」


 甘えるように、たくましい肩へ頭を擦り寄せる。


「心からあふれるぐらい、耕平くんが好き」

「俺も。好きだよ、千波」


 顔を上向ければ、落とされたキス。

 ほろ苦いカラメルの香り。


「次は、耕平くんの話が聞きたいな」


 いつの間にかプリンは食べ終わり、ハイボールを淹れたグラスを傾けながら耕平が、「甘酸っぱい恋の思い出かぁ」と呟いた。


「耕平くんの初恋は?」

「初恋? 初恋は……小学校の先生。ピアノが上手い人だったな。いい香りがしてさ。ガキの俺は、近付く度にドキドキした」

「年上が好きなの?」

「そういうわけじゃないけど。初カノも、その次も同級生だったし」

「どんな子だったの? ファーストキスって、どうだった?」

「楽しそうだな、千波」

「うん、楽しい。今日はね、いろんな恋バナ、聞いてるよ」


 機嫌良くお湯割りを飲み干した千波。

 確認するように顔を覗き込んだ耕平が、苦笑を浮かべた。


「酔ってる? 顔が赤い」


 千波は自分の頬に手を当て、頷く。このふわふわした感覚は、酒による酔いだ。


「今日ね、楽しかった」

「桃子とゆかとも、大丈夫そう?」

「うん。桃ちゃんとゆかちゃんも、倫子さんも好き。伸行くんも。智之くんと慎太郎くんは、まだよくわかんない。でもね、いい旦那さんだね。素敵」

「女同士で、旦那ののろけ話でもしてたのか?」

「うん。したよ。私もバッチリのろけてきた」


 こそばゆいような笑い声をこぼしつつ、千波はキスをねだる。

 深くつながった唇から、幸せが流れ込んでくるような感覚がした。


「女同士って、肩書で距離ができるんだよ。結婚してる、してない。子どもがいる、いない。どんどん話が合わなくなって、予定を合わせることも難しくなって、疎遠になるの。でもやっぱり、そろそろ夕飯の支度しないとって考えるタイミングが一緒なのってなんか……いいなって、思ったよ」


 男の人にはわからないかもしれない。それでも千波は、そう思える環境をくれた耕平に、感謝したい。

 耕平と出会わなければ千波はきっと、自らこもった孤独の中から、抜け出せなかっただろうから。


「これまで耕平くんが付き合った人、好きだなって思った人、その誰よりも、私が君を幸せにする。こんなにも私を満たせるのは耕平くんだけだから、君にたくさん、お返しをしたい」


 結婚式のことに関しては要相談だけどと付け足すと、耕平が楽しそうに笑った。


「あー。早く指輪、届かねぇかな」

「来週だっけ?」

「うん。結婚指輪も一緒に届く」

「結婚指輪のほうを付けるのは、やっぱり式が終わってからにすべき?」

「だな。結婚式について聞いてきたんだろ? 意見は変わりそう?」

「ずるいなぁって、思った」

「何が?」

「耕平くんが相談した相手が。ゆかちゃんと伸行くん夫婦は新郎側が全額払ったって、知ってて相談したんでしょう?」

「それもあるけど。ゆかは面倒見がいいから、千波が話を聞ける場を作るだろうなっていうのもあった」

「かなり相談にのってもらっちゃった。北海道と関東の、結婚式の常識の違いも判明」

「どんな?」

「えーっとねー」


 そうして対話を重ね、二人の形を模索していく。

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