第18話 元いた場所(SIDE耕平)

 仕事関係の用事を片付けるため、耕平は世話になっている出版社へ足を運んだ。

 すぐに終わるだろうと考えていたのだが、思いのほか長く引き止められてしまい、急いで千波が待つカフェへと向かう。


「あれ?」


 窓辺の席にいたはずの、千波の姿が見当たらない。

 咄嗟にスマートフォンを取り出したが、千波が連絡手段を何も持っていないことを思い出した。

 長時間居座るのが気まずいと考え、外へ出たのかもしれない。それなら遠くには行っていないだろう。


 店の外へ出て、周囲を見回す。


 案の定千波の姿はすぐに見つかったが、一人ではなかった。

 共にいるのはスーツ姿の男性だ。

 ナンパではないだろうが、何かのキャッチセールスかもしれない。


「ごめん。遅くなった」


 急いで駆け寄る耕平の姿に気付いた千波の表情が、ほっと緩む。


「私こそごめん。勝手に移動しちゃって」

「その人は?」


 スーツ姿の男は立ち去る様子も見せず、千波の隣に立ったままで耕平を迎えた。そのことから、もしかしたら知り合いなのかもしれないと思い至る。


「前の職場の社員さん。営業でこの辺回ってたみたいで、声を掛けられたの」

「及川さん、キレイになったなと思ったらそういうことか。壊滅的な食生活は改善したの?」

「今は三食、食べてますよ」

「そうだ。携帯の番号変えた? 飲みに誘おうと思ったのに通じなかったんだけど。ラインからもいなくなってるし」

「スマホって煩わしいじゃないですか。思いきって解約しました」

「変わらず不思議ちゃんだね。愚痴に付き合わせてごめんな。お連れさん来たみたいだし、俺もそろそろ会社に戻らないと」


 千波へ手を振り、耕平には会釈して去っていく男の背を見送ってから、耕平は千波へと視線を戻す。

 特に変わった様子は見受けられない。男と話していた千波は嫌な顔一つせず、柔和な笑みで明るく対応していた。


「前の仕事って、事務?」

「そう。あの人のアシスタントをしてたの。私の後任がすぐにやめちゃったらしくて、まいってるんだって」

「仕事、何て言って辞めたんだ?」

「更新の意思確認のタイミングで、自営業を始めることにしましたって、嘘ついて。私が請け負ってた仕事のマニュアルは作ったし、後任が見つかるのを待って、引き継ぎもちゃんとしたよ」

「結構前から準備してたんだな」


 千波の車の中にあった装備は、その場の思い付きで旅に出た人間のそれではなかった。


「仕事って、言ったその日に辞められるものでもないでしょう? 去る人間が必要以上の迷惑を掛けるのは、嫌だなって思うから」

「あの人とは、よく飲みに行ってたの?」

「最初の一月は付き合いで行ったけど、その後はずっと、夕飯は食べない派だって言ってお断りしてたよ」

「千波の食生活のこと、知ってるんだな」

「ヤキモチ? 耕平くん、なんか拗ねてない?」


 耕平の顔を覗き込むようにして見上げる、千波の視線。

 避けるように、耕平は顔をそらす。


「耳、赤い」


 軽やかな笑い声が、耕平の鼓膜を揺らした。


「それとも、勝手に店を出たこと、怒ってる?」


 千波はきっと、耕平がそんなことで怒らないことをわかっていて、わざと言っている。


「随分仲がよかったんだなって、思っただけ」

「ただの上司と部下だよ。昼休憩にね、食べてる物を見られたの。これで夕飯を食べないなら朝にたくさん食べてるのかって聞かれて、その日の朝口にした物を言ったらドン引きされた」

「それはまぁ、俺もドン引きしたな」


 ここは、耕平と出会う前の千波が生活していた場所。

 友人はいないと言うが、町中で知人に出くわして声を掛けられるぐらいには、社交をしていたようだ。


「耕平くんに、謝らないといけないことがあって」


 手をつないで歩きながら、千波が唐突に告げた。


「何?」


 歩くのを止めず、進行方向へ視線を向けたまま、千波は言葉を紡ぐ。


「私、予防線を張ってたの。自分が傷つきたくないから」

「何のこと?」

「昨日、私はわざと、お兄ちゃんを悲しませることを言ったの。実家でも、両親を積極的に安心させようとしなかった上に、美心さんからも逃げた。それが、私のこれまでの姿だったから」


 千波が言おうとしていることがわからず、耕平は黙って、続く言葉を待つ。

 耕平の反応をうかがうように、千波がちらりと、耕平へ視線を向けた。


「耕平くんが、それで私に幻滅してしまえばいいと思ったの。だけど耕平くんは、私のことを第一に考えた行動をとってて、態度も全く変わらない。だから、ごめんね」

「今、それを謝る意味は?」

「真剣に向き合ってくれてる相手に対して、失礼だったなって、反省したの」


 私ねと呟いた千波は、晴れやかに笑う。


「倫子さんの所で、事務仕事を手伝わせてもらおうかと思うの。毎日窓の外を眺めてた昼の一時から五時までの時間に、働きに出たいなって。でも当面の生活費がないから、これまでどおり家事をやる代わりに、耕平くんの家でお世話になってもいいかな?」

「いいに決まってるだろ。むしろ、家事は無理しなくても」

「それは嫌。もらってばかりって、もやもやするから」


 正月に行った伸行の家で千波は、倫子と桃子とゆかに、村での仕事について相談したらしい。その時に、ネット通販で商品販売をしている倫子の仕事の人手が足りなくなっているから、手伝わないかと誘われたのだそうだ。


「倫子さんにはね、東京でいろいろ片付けて、耕平くんに聞いてから返事をしますって伝えてある」

「千波は、それをしたいって思うのか?」

「うん。事務だったら、私でも役に立てるから。あの場所に根付く一歩を、踏み出したい」

「いいと思うよ」


 千波が再び耕平の顔を見上げ、耕平の柔らかな表情を観察してから、蕾が開くように、安堵がにじむ笑みを浮かべた。


「ありがとう」


 くすぐったそうに微笑む千波と手をつなぎ、耕平は歩き続ける。


 二人が向かった先は、近くのコインパーキング。ホテルは既にチェックアウトして、荷物は車に積んである。


 運転席には千波が座り、耕平は助手席でノートパソコンを開く。東京までの道程も、二人はこうして車を走らせ、やって来た。

 千波は黙って運転し、耕平はキーボードを叩く。

 文章を書くための物と、メールをやり取りできるスマートフォンがあれば、耕平の仕事はどこでもできる。耕平は三半規管が強いから車で酔うことはないし、思い付いた時にはすぐに文章にしたい。


 札幌までは耕平が運転して、一泊してからフェリー乗り場へ向かい、青森から東京までは交代しながら運転した。

 東京までの二人分の旅費は、千波の貯金から支払われた。これも旅の区切りなのだと言う千波を見て耕平は、戻る可能性を考慮していたことに安堵したのだが――事実はそうではなかった。


「帰るつもり、ちゃんとあったんだな」


 東京へ行くことが決まった時、耕平がこぼした言葉を、千波は否定したのだ。違うよと、真顔で告げた。


「火葬費用。遺書に、火葬場とか葬儀屋さんのこととか、全部書いておいたの。人間、死ぬのもお金がかかるから」


 先ほどの謝罪を聞いた後では、もしかしたらあの時のことも千波の謝罪に含まれているのではないかと、耕平は思う。

 耕平を幻滅させる目的の言動の、一貫だったのだろう。

 だが千波のことだから、嘘はついていないはずで。だからこそ耕平は、千波が後ろ向きな目的で手元に残していたお金を使い果たすのに、協力している。



 旭川のナンバープレートが付いた白の四駆車は、都内を離れて南西へと向かう。


 首都高と湘南バイパスを使って辿り着いたのは、千波の実家。古びた小さな一軒家だ。

 駐車場に車を停めてから、実家だというのに、千波は玄関で呼び鈴を鳴らす。


 出てきたのは、海晴だった。


「お兄ちゃんが、どうしているの?」

「お前がここの鍵を持たずに出て行ったことは、母さんから聞いてる」

「それ、十年以上も前の話」

「母さんは今日パートだからって、頼まれたんだよ。千波のことだから、家に誰もいなければまたどっかに行っちゃうんじゃないかって。心配してたぞ」


 昨夜、東京行きの東海道線の中で耕平が千波の母とやりとりをした結果、千波の実家へ一泊することが決まったのだ。


「お兄ちゃん、しずくはいいの?」

美心みことが今日、早上がりなんだよ」

「また文句言われちゃうね。ごめんね、ダメな妹のせいで」

「本当だよ。反省してくれ」


 千波の両親は仕事に出ていて、まだ帰宅していなかった。どうやら海晴も、今夜は泊まっていくらしい。


 海晴に案内されて入った居間には、アルバムの山が存在した。


「耕平くん、千波のアルバム見る? 昨夜母さんが引っ張り出してたんだ」

「見ます」

「え、やだ。見せない」

「千波だって、札幌で俺のアルバム見ただろ?」

「……実は、ゆかちゃんからも見せてもらったんだよね。お正月に」


 耕平は、有無を言わせぬ笑みを浮かべてアルバムに手を伸ばす。


「したっけ、俺だって見てもいいしょや」

「それなら私は、夕飯の支度でもしようかな」

「今日は鍋。既に兄ちゃんが支度しといた」

「この、できる専業主夫めっ」


 逃げ道を塞がれ、諦めた千波は耕平の隣に腰を下ろした。

 台所で淹れたお茶を運んで来た海晴も、二人の向かい側へ胡座をかいて座る。


「実は兄ちゃん、今は兼業主夫なんだ」

「仕事、始めたの?」

「家でな。フリーランスで少しずつ、仕事をもらえるようになってきた」


 海晴が以前、プログラマーとして働いていたことは千波から聞いている。

 息子の雫が二歳になった頃に過労で倒れ、元々共働きだったこともあり、専業主夫になったらしい。


「兄ちゃんもさ、上手く生きれてないほうだけど。千波が力を抜ける場所が見つかったのなら、よかったなと思うよ」


 アルバムをめくり、少しずつ成長していく千波の写真を見ながら、兄妹の思い出話を聞いた。

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