第14話 クリスマスケーキ(SIDE千波)
書斎の掃除をしながら壁のカレンダーに目をやり、ふと気付いた。
「今日、クリスマスイブか」
窓の外は、見慣れてきた雪景色。
ここでは毎年ホワイトクリスマスなんだなと、千波は思う。
クリスマスといえば恋人の行事だが、千波にはお金がない。耕平は、イベントを気にする人だろうか。
「ケーキでも焼いてみようかな。……焼いたことないけど」
夕飯は洋食で、ちょっとしたご馳走にしようと決めた。
掃除を終え、キッチンで朝食の支度をしている千波の背中に、耕平が引っ付いてくる。
「腹減った」
お湯で洗ったからか手は温かいが、耳元に押し付けられた耕平の頬が、ひんやり冷たい。
「今日も朝一のお仕事、お疲れ様でした」
振り向かず、冷えた自分の左手を耕平の首筋に当ててみた。冷たいと文句を言いつつも、耕平は楽しそうに笑っている。
ふいにその手をつかまれて、温かな両手に包まれた。
「倫子さん、チーズケーキの人」
「慎太郎くんの、奥さんね?」
「うん。その人がさ、もしよかったら、一緒にケーキを焼きませんかって。千波のことは慎太郎から話がいってるから、断っても問題ない」
「どうして、その人は私とケーキを焼こうと思ったの?」
千波の左手を両手で包んだまま話す耕平に向き合い、千波は首を傾げる。
「人からのまた聞きだけじゃ、何もわからないからって、言ってた」
「なるほど」
ちょうどケーキでも焼こうかと考えていたタイミングで、その道のプロからのお誘い。インターネットでレシピを検索しても、お菓子作り初心者の千波が上手に焼けるとは思えなかった。
何より、耕平が喜ぶ顔が見たいから。
「会ってみようかな。ケーキの作り方、教わりたいし」
「子どもは好き?」
「人間らしい生き物が嫌い」
「四歳と二歳の女の子と、一歳の男の子」
「まだ人間じゃない?」
「んー? どうだろう?」
「冗談だよ。大丈夫」
「無理してない?」
心配そうに見下ろしてくる耕平の瞳を見つめ返し、千波は微笑む。
「殻にこもってばかりいても、何も変わらないから」
「……わかった」
耕平の腕の中に招き入れられ、胸元へ頬を擦り寄せ、千波は思う。
――この腕があるならきっと、私は、大丈夫だ。
※
昼過ぎに、玄関の呼び鈴が鳴った。
書斎から耕平が出てきて、自分が出ると言ってから玄関へ向かう。
「森野くん。荷物運ぶの手伝ってー」
「あれ? 子どもらは?」
「人の目はたくさんあるけん、置いて来たんよ。あの子らいたら、ゆっくり話せんじゃろ?」
耕平の後ろから顔を出した千波に気付き、明るい笑顔が似合う女性が会釈した。
「はじめまして。慎太郎の妻の、立松倫子、三十四歳です。子どもが三人います」
「はじめまして。及川千波と申します。三十二歳です」
「しんちゃんが年下の若い女の子って言ってたけど、ウチと年近いのね?」
「髪型と、化粧っけがないせいで、若く見られたんですかね?」
千波は、自分の短い髪をくしゃりと握る。この髪は、東京を出発する前に自分で切ったものだ。
車中泊の旅では頻繁に風呂に入れないかもしれないから、手入れが楽になるようバッサリ切ってしまった。
坊主にしてしまおうかとも考えたが、それはやり過ぎかと思い、とどまった。
「千波は、三十代には見えない」
「森野くん、ウチは?」
「倫子さんは、最初から年齢知ってたからな。ほら、寒いだろ。中で話そう」
倫子の車から出した荷物を持った耕平が、二人を促す。
室内に入って荷物を置き、上着を脱いだ倫子が手早くエプロンを身に着けた。それを見て、千波も慌ててエプロンを着ける。
「森野くんは、出版社が休みになる前に出さなきゃいけんもんがあるんでしょう? ウチらは二人で大丈夫じゃけん」
「プロがついてれば、丸焦げにはならないと思う」
拳を握った千波の顔を観察するように見てから耕平は、柔らかな笑みを浮かべた。
「何かあったら、呼んで」
「うん」
人前で躊躇なく頭へ口付けが落とされ、千波は赤面する。
「さーて。熱々な二人の夜が、さらに燃え上がるようなケーキを焼きますかねぇ」
倫子が持ち込んだ道具と材料を使い、二人はケーキ作りを開始した。
※
ケーキが焼き上がるのを待つ間、ダイニングテーブルで向かい合って座り、お茶を手に千波と倫子は一休み。
「こうして話した感じ、千波ちゃんは、お医者さんが出すお薬がどうしても必要というほどでは、ないのかなぁ?」
素人だから正確なことは何もわからないけどと、倫子は付け足した。
「私は、他人と普通に話すことはできるし、震えたりもしない。社会生活への支障は、特になかったです」
東京にいた頃、千波は自分で、自分の症状について調べたことがあった。何かしらの病名がついたほうが楽になるかと思ったからだ。
だが調べた結果わかったのは、本当に苦しんでいる人ほど、千波の症状はひどくはないようだという事実。だから、ただ――
「ただ、他人と極力関わらないように生活してました」
自分でできる解決策として、他人を避けることを選んだ。
「どうしてか、聞いてもいい?」
「私は普通にしてるつもりでも、誰かを不快にさせるから」
「誰かに、そう言われたの?」
こくんと、千波は頷く。
誰に言われたかは忘れたが、千波の言葉は冷たく聞こえると、言われたことがある。
優しい言葉、耳障りのいい言葉を選んで吐くようになったが、感情が伴わない言葉は、千波の中の何かがズレていく。だが周りの評価を聞く限り、それが正解なのだとわかった。
及川さんは変わってるねと言われる度、勝手に拒絶されてるような気になって、傷付いた。
普通になろうとしたが、普通が何かがわからない。
――妹ちゃんはいいよね。そうやって自由に生きられて。楽でしょう? その生き方。
どうして決めつけるんだろう。
苦しいよ。つらいよ。
一度レールを外れてしまった私には、そこへ戻れる道がないだけで。足場の悪い草むらを掻き分けながら進むような生き方が、どうして楽だと思うのか。
――また仕事変えたんだって?
鼻で笑って、嘲らないで。
「千波ちゃんはこれまで、人間の悪意の部分とばかり触れ合って来ちゃったのかもしれないね」
倫子の言葉で、千波が逃げ出してきたあの場所を思い出す。
悪意は確かに、学生の頃までは上手く避けられず、ぶつかってばかりいた。
社会人になって、悪意の避け方を覚えた代わりに出会ったのは――無関心。
「ウチはここに来て、自然はこんなにも厳しくて、人間は温かいんだなって、知ったんよ」
「倫子さんは、どういう経緯で慎太郎くんとご結婚されたんですか?」
倫子は照れたように微笑み、薬指の指輪に触れた。
「仕事でね、悩んでた時に、息抜きで北海道旅行に来たの。一人旅。どうせなら最北端に行こうって思ってね。ここの牛乳を飲んだら、びっくりするぐらいおいしくて。夢が膨らんだんよ。この牛乳で何を作ろう、何ができるだろうって。その場の勢いで村役場に乗り込んで、移住ってどうやったらできますかって聞いてね」
「すごい。もしかして、そのまま移住して来られたんですか?」
「広島に帰らないとならないギリギリまで旅行期間伸ばして、他の予定は全部キャンセルして、移住体験住宅ってのを借りてね。しんちゃんの所の牧場でお世話になったの」
絶対にまた戻ってくるから雇ってくれませんかと頼み込む倫子に、慎太郎が告げたのだ。
――俺の嫁さんになって子どもを産んでくれるなら、ここで好きなことをやらせてやる。
「結婚にも焦ってる年齢だったし、恋人もいなかったから」
「それで本当に結婚って、不安じゃなかったんですか?」
「あれでしんちゃん、すごく情熱的でね」
倫子が広島に帰った後も、毎日のように慎太郎から連絡が来たそうだ。
「苦労はさせるけど後悔はさせない。俺は本気だ。いつ戻って来るんだって」
「のんびりしてそうな人だったのに!」
「実際、のんびりした性格なんよ? でもなんか、逃したら後悔するって思ったんだって。それで、旅行から半年後にはこっちに来て、籍入れたの」
「人の話を聞いてこんなにドキドキするの、久しぶりです!」
思わず興奮してしまった千波は落ち着くため、冷めたお茶で口を潤す。
倫子も一息ついて、お茶をすすった。
「田舎やけん、無関心とは無縁だけど、だからこそ戸惑うこともたくさんあってね。悪気のないお節介っていうの? でもここの人たち移住者には慣れてるから、上手いことやるのよね。まぁ、ノリでやり過ぎることもあるけど」
最後の言葉はきっと、一昨日の歓迎会についてだろう。
カップから離れた倫子の手が伸ばされ、千波の手に触れた。
「一人で、大変な道程越えてよく来たね、千波ちゃん。年が近い者同士、またこうしてお茶が飲めたら、ウチは嬉しい」
これからどうぞよろしくお願いしますと答えながら、千波の鼻の奥が、ツンとする。
その後仕上げたケーキはプロの手を借りただけあり、初めてにしては、かなり上手に仕上がった。
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