第5話 おでかけ(SIDE千波)
森野耕平という人物は、不用心だ。良く言えばおおらか。
初めての雪かきで疲れてしまい、千波はつい眠ってしまったのだが……昼寝から起きてメモを見つけた時は、驚いた。
東京で暮らしたことがあるのなら、防犯に関する危機意識はしっかりしそうなのに、出会ったばかりの身元不明の人間を家に残して出掛けてしまうなんて、千波の中の常識では有り得ない。
だがそこまで信頼されてしまっては、絶対に裏切るものかとも同時に思う。そしてそんな彼だからこそ、千波は救われているのだ。
困ったことに、彼は笑顔がかわいい。
大きな体で笑顔がかわいいなんて、ギャップ萌えだ。そして、結構すぐに赤くなる。
本人は隠せているつもりなのがたまらなくかわいい。
優しいのもよろしくない。
彼の優しさは危険だ。危うく惚れそうになる。
だから千波は、自分を戒める。
未だ名前を聞かれていないのが、彼の答えなのだからと。
「なぁ」
洗濯物を干していると、背後から掛けられた声。
森野家の脱衣所は無駄に広いなと初日に思ったが、洗濯物を干すスペースも兼ねているからだと、住み込み家政婦になって知った。
外に干すと、洗濯物が凍るらしい。
「お風呂入るの?」
「違う」
雪かきをして汗をかいたから風呂に入りたいのだろうかと予想してみたが、どうやらハズレらしい。
それならどうしたのかと問えば、不思議な質問をされる。
「稚内は、行ったんだよな?」
「行ったよー」
「防波堤ドーム、見た?」
「見たよー。大きくて感動した」
「宗谷岬は?」
「そこが目的地だったからね。そこから流氷見たいなーって走ってきて、遭難して耕平くんに拾われたんだよ」
「白鳥、見たい?」
「見たい!」
「まだいるか微妙」
「あら残念」
「なんでこの時期に来たんだよ!」
「ふと思い立ったからね。どうしたの?」
洗濯物を干し終わり、振り向いた先では耕平が、不機嫌そうに顔をしかめていた。
「今の時期、雪しかねぇなって」
「移住体験にはぴったりな時期だね?」
「そうなんだけど……」
何が言いたいのかが、いまいちわからない。
そもそもまだ出会ってから四日だ。察することなど不可能だろう。
入り口を塞いでいる耕平に歩み寄り、顔を見上げる。
何故か狼狽えた耕平が、一歩後退った。
「仕事が疲れたから、息抜きしたいとか?」
「いや。別に」
「私と遊びたいの?」
冗談だったのだが、視線を泳がせた耕平の耳が、赤く染まっている。
千波の胸が、きゅうっと苦しくなった。
「……雪で覆われた湖、見に行く?」
何でもないふうに告げられた、耕平からの提案。
「行く。お弁当、作る?」
「俺の車でお湯が沸かせるから、カップラーメン食おうぜ」
「それすっごく楽しそう!」
化粧品は全て捨ててきたから、出掛ける準備は簡単だ。
そもそもこれは、デートではない。耕平は、観光案内をしてくれるだけなのだろう。
白い四駆車の前まで来て、千波は迷う。
「……どこに乗ればいいかな」
助手席か、後部座席か。どこに乗るのが正解なのかが、わからない。
千波と耕平の距離は、どこなのだろう。
「開けてもらわないと乗れないのか?」
耕平が、千波の呟きを拾って運転席側から回って来た。
迷わず助手席側のドアを開け、早く乗れと顎をしゃくる。
車の中は耕平が事前に暖めてくれていたから、暖かい。
「シートベルトも締めてやろうか」
「では遠慮なく。お願いします」
「自分でやれ」
乱暴にドアが閉められ、千波は自分でシートベルトを締めた。
耕平が運転席へ乗り込み、車は滑らかに発進する。
「音楽、好きなの選んでかけて」
「耕平くんの好みが丸わかりだね」
手を伸ばし、千波はカーナビの画面を操作してアーティスト名を確認していく。
「UKロックが好きなの?」
「名前見ただけでわかるんだ?」
「うん。お兄ちゃんとフェス行って、一時期ハマっていろいろ聞いたから」
「兄貴は何してる人?」
「お父さんしてる」
「主夫ってこと?」
「お兄ちゃんには、大黒柱は無理だったんだって」
「奥さんの仕事は?」
「雑誌作る人」
車は、玄関が二重になった雪国ならではの造りをした家が並ぶ通りを抜けていく。
「姪っ子? 甥っ子?」
「甥っ子が一人。小二。ちょー生意気」
話しながら、千波は兄の顔を思い浮かべる。
恐らく正月に、千波と連絡がつかないことに家族は気付く。
兄の妻である彼女はまた、呆れのため息をこぼすのかもしれない。
「聞かないの? 俺の家族構成」
「聞いて欲しいの?」
「うん。聞いて」
運転席へ視線を向けると、彼が浮かべていたのは人懐っこい笑み。
思わず千波は、笑ってしまう。
かわいい人だなと、思う。
「耕平くん、兄弟は?」
「いない。一人っ子。両親は札幌にいる」
「札幌かぁ。遠いね」
「東京ほどじゃない」
「あの家は、父方? 母方?」
「母方。俺が生まれてすぐ、親父が単身赴任で福岡行ってさ。母ちゃん一人で子育て大変だからって、母方の爺さん婆さんと暮らしてたんだ。俺が高校入る前に親父が札幌に戻ってきて、母ちゃんと俺もそっちに行った。婆さんは大学の時、爺さんは六年前に死んだ」
「お父さんのご実家は?」
「旭川。旭山動物園行きたいなら、婆ちゃん家に泊めてもらえるけど」
「遠慮しとく」
「だよな。人付き合い嫌いとか、そうは見えねぇのに」
「友達いないのが証拠」
「一人もいないの?」
「学生時代はいたよ。その場限りの友達。今でも連絡を取り続けてる相手はいないし、年賀状は一枚もこない。休みの日は、一人でテレビを眺めて終わってた」
千波だって、子どもの頃からそうだったわけではない。だけどある時からふと、周囲と自分の波長が合わないことに気付いた。
千波にとっては悪気のない言動が、相手を不快にさせていたことを知った。
「……大好きな、友達がいたの」
千波の声が小さかったからだろう。耕平がハンドルのスイッチを操作して、音量が下げられる。
「高校で仲良くなって、お互いに親友だねって。成人式も、その子と行った」
彼女の家で初めてのお酒を飲み、メールのやり取りも、おしゃべりも止まらない。
お互いの結婚式には絶対参加する。子どもができても会い続けようねと、約束していた。
「私がね、失敗したの。彼女の状況も知らず、べらべらしゃべって、怒らせた」
彼女は大学、千波は演技の勉強を始めて別々の道を進んだが、定期的に会っていたある日、彼女が言ったのだ。
――退屈だったら帰ろうと思ってたけど、今日は案外楽しかった。
「なんか彼女、つらい恋をしてたらしくてね。彼女は、好きな人にとっての浮気相手だったんだって。恋人がいる相手ってわかってたけど好きになって、それでも付き合ってたらしくてね。私がする彼氏の話が苦痛だったって、最後に会った日に言われた」
そこから千波は、人との付き合い方がわからなくなってしまった。
「もう会いたくないって、はっきり言われちゃったんだよね」
「ショックだった?」
「すんごくね。……他にも高校の友達はいたんだけど、彼女が何か言ったみたいで。訳わわからない内にみんなからめちゃくちゃ責められてさぁ、ハブられちゃった。元々嫌われてたのかもね」
「それは、なんとまぁ」
「何も言えない?」
「どんまい」
「どーも」
「その後、友達はできなかったのか?」
「できたけど、周りはみんなライバルだったから。アルバイトとか派遣の仕事先では、みんなその場限りの通り過ぎていく人たち」
「生きづらそうだな、あんた」
「ハハ」
目的の場所へ辿り着き、車が止まる。
雪は降っていないものの、空は雲に覆われていた。
「いるじゃん! 耕平くん!」
「いるもんだな」
雪の積もった湖は、全てが凍っているわけではないようだ。凍らず小さく残った水の中に、白い鳥が集まっている。
「あの子たちは、ここで冬を越すのかな?」
「あんたと一緒だな」
「……そうだね」
壮大な雪景色を眺めながら、耕平と並んで食べた熱々のカップラーメンは、腹と心を満たす極上の味だった。
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