第3話 移住体験(SIDE千波)
期間は春が来るまで。
洗濯、掃除、食事の支度が宿代の代わり。それ以外は自由時間。嫌になればいつ出て行っても構わない。
夕方決まった、千波が森野耕平宅に滞在する条件だ。
家の中を案内してもらい、森野家での家事について簡単に説明してもらった。
「必要がないから、名前聞かれないのかな。ペット以下だけど……はっきり言って、助かる」
温かな湯に浸かりながら、千波は独り言を呟いた。
車中泊も最初はわくわくしたが、風呂とトイレが困るのだ。トイレは道の駅やコンビニで借りられるが、銭湯は中々見つからない。中古車だからカーナビの地図情報は古く、スマートフォンがないのは地味な痛手だった。
走り続ければガソリン代もかさむ。
無職の今、お金が減らない環境はありがたい。
流氷が見たい。見ないで東京へ戻れば後悔する。
そんな予感がした。
「セフレ的な関係を求められたりするのかなぁ……。でもあの人、女に困ってなさそうな見た目だよなぁ」
背が高くて、骨格ががっしりとしていて、首が太い。
少しウェーブがかった髪は一つに結えるぐらい長いが不潔ではなく、目鼻立ちがはっきりしたイケメンっぽい雰囲気の持ち主だ。
陰か陽かでいえば、陽タイプ。
千波は陰に分類されるタイプで、決してメンヘラではないがメンヘラっぽいと言われたことがある。
心が病んだ見た目であるということは自覚している。
実際、心は病んでいる。
「多分春までっていうのは、私が今後を決めるための期間なんだろうな。……森で出会ったクマさんがいい人過ぎて、罪悪感。せめて不快な思いをさせないように頑張ろう」
今後の方針を自分の中で固めて、千波は風呂から上がった。
リビングに行くと、先に入浴を済ませていた耕平の姿は見当たらなかった。
書斎の扉に耳を押し当ててみれば、キーボードを叩く微かな音。
夜食は必要か事前に聞くべきだったなと後悔しつつ、明日の朝確認しようと脳内メモに書き込む。
テレビがなく、隣家とも離れているからかとても静かだ。
足音を忍ばせて窓辺に歩み寄り、腰を下ろす。
吹雪いてはいないが、雪はまだ降り続けている。
こんなにのんびりした時を過ごすのはいつ振りだろうか……。
扉の開く音がして、振り向けば耕平が立っていた。
「ドライヤーあっただろ? 髪、ちゃんと乾かせよ」
「短いからすぐに乾くよ」
「あんた、風邪ひいたらすぐに死にそう」
さすがにそこまで弱くないとは思ったが、誰かに心配されることが久しぶりで嬉しかったから、素直に従うことにする。
「チーズ、好きか?」
洗面所でドライヤーをかけていると背後から声を掛けられ、千波が頷いたのを確認して、耕平は去っていく。
どういう意味の質問だったのだろうかと首を傾げつつも、耕平に怒られないようしっかり髪の毛を乾かしてから戻れば、ダイニングテーブルの上にチーズケーキらしき物が用意されていた。
「昨夜友達の奥さんからもらったんだ。食うだろ?」
「食う」
「ワインは?」
「飲む!」
「あんたのその遠慮しない所、嫌いじゃない」
君のその笑顔は結構好きだよ、と思ったが、その言葉は千波の心の中に秘めておく。
向かい合ってダイニングテーブルに座り、チーズケーキをつつきながら、二人で白ワインを飲む。
「こんなチーズケーキを焼ける人と結婚したい!」
「残念ながら人妻だ」
耕平の友人の奥さんの手作りだというチーズケーキは、濃厚ふわとろで、プロ顔負けの味だった。
「元々は広島でパティシエしてた人でさ、観光でチーズ作り体験に来て、ここの牛乳に惚れ込んで移住して来たんだ。最終的に牧場の跡取り息子に嫁入りした。このチーズケーキは牧場のイチオシ商品。通信販売もしてる」
「プロだった上にちゃんとした商品だった!」
「あんたが気に入った牛乳も、その牧場のやつ」
「さすが北海道! この地を踏んでから北海道っぽい物初めて食べたよー。耕平くんと出会えたのは奇跡!」
「うまい?」
「超うまい!」
「その奥さんが惚れたチーズもある。食う?」
「食う!」
勢い良く答えてから、遠慮がなさ過ぎだろうかと羞恥心が湧き上がる。
千波は元々、人懐っこい方ではない。むしろ人間なんて大嫌いだ。
だけど耕平は話しやすい。
多分これは、非日常の中にいるからだ。千波にとっての、非日常。
日常の中であれば、千波は見ず知らずの男の家になんて上がり込まない。
遠慮なく食料を分けてなんてもらわない。
住み込み家政婦の真似事も、しようなんて考えない。
「答えたくなかったら答えなくて良いんだけどさ」
千波の前置きに反応して、チーズを切って運んで来た耕平が、視線で先を促した。
「耕平くんは、作家になってから長いの?」
「七年、かな。来年八年目」
「ずっと、作家一本?」
フォークに刺したチーズが口元へ差し出され、千波は迷わず、口を開ける。
「うまいだろ?」
チーズが口の中にある内に、ワインを一口。
「こんなにおいしいチーズ、人生初」
「明日はホタテ、食わしてやる。食える?」
「食える! カニとエビはアレルギーだけど、ホタテは平気」
「あぁ、アレルギー持ち? 他に何が無理?」
「桃、さくらんぼ、マンゴー、パイナップル、豆乳。豆乳は、加熱すれば大丈夫っていうのが謎。私のアレルギーは、花粉症の延長線にある症状なんだって」
「花粉かぁ。北海道も花粉は飛ぶけど、東京とは種類が違う。あ、キツネがかわいくても触るなよ」
「はーい」
多分耕平は、千波を元気づけようとしてくれている。
「さっきの、作家一本かっていう質問だけど、違う」
「そうなの?」
「二十五までは東京でサラリーマンしてた。営業職」
「営業っぽいね」
「そうか? 俺的には合わなくて、結構つらかった」
東京で出会っていたらきっと、耕平は千波に手を差し伸べることなどなかっただろう。
「作家は、いつから?」
「大学時代に賞もらってデビューしたから、そこから」
「なのにどうしてサラリーマンになったの?」
チーズを一切れ口に入れ、咀嚼しながら、耕平は考えている。
何故か千波の前にもチーズが差し出され、親鳥から餌をもらう雛のようにチーズを食べて、ワインを飲む。
「小説ってさ、人間を書くんだよ。だから、多くの人と関わる仕事を選んだ。……俺、本当は歴史の教師になりたかったんだ」
「どうしてならなかったの?」
何故かまたチーズを食べろと催促され、千波は首を横に振る。
「クラッカーないの?」
「ある」
「森のクマさんは未来から来た猫型ロボットなの?」
「クマでもタヌキでもねぇよ」
「私猫って言ったのに」
立ち上がった耕平は食料庫へ向かい、戻って来た手にはクラッカーの箱があった。
何でも出てくる様子が、タヌキ呼ばわりされると怒る青い猫型ロボットみたいだなと、千波は思う。
「私は、女優になりたかった」
千波が手を出さずとも、クラッカーにチーズが乗せられ口元へと運ばれる。
どうやら耕平は、千波の食生活を聞いてかなり心配しているようだと思い至る。
誰かと会話しながら食べるという行為は、こんなにも心を満たすのかと、知った。
「それで?」
「なれなかった。知ってる? 誰かに夢を与える職業ってね、曖昧で夢がある分、食い物にされやすいの。私の夢はね、他人の夢で商売している人たちに、食べられちゃった」
必死にバイトして貯めたお金は、レッスン費に消えた。
継続は力なりという言葉があるのだから、諦めなければ何かしらの芽は出たのかもしれない。
千波には努力し続ける才能すらなかったということなのだろう。
「心と体を壊して、頑張れなくなった。その時付き合ってた彼氏に結婚をチラつかされて、私は目先の幸せに飛び付いたの」
「……それが、九年目で浮気した男?」
「正解! それも、もう五年も前の話だけどね」
「結婚は、したの?」
「しなかった。結婚費用をお互いに貯めようってなったんだけど、彼は変わらず定職に就かなくて」
「挙句の浮気か。最低だな。別れて正解だ、んな男」
「うん。でも、別れたら本当に、私の手の中には何にもなくなっちゃったの」
テーブルの上のクラッカーに手を伸ばし、チーズを乗せる。次は君の番だと、千波は耕平の口元へそれを差し出した。
大きな口が開き、クラッカーは彼の口腔へ消える。
「俺は、怖気づいたんだ」
クラッカーを咀嚼してワインを飲んでから、耕平が言葉を紡いだ。
「人間を、教え導く自信がなかったから」
「だから、自分の人間力を磨く道を選んだの?」
「良く言えばそうだけどな。逃げただけだ」
「後悔してる?」
「いや。今の仕事と生活が気に入ってる」
「選んだ結果辿り着けたのがそれなら、良かったね」
「そうだな」
千波があくびを漏らすと、「もう寝るか?」と静かな声が掛けられた。
時計を見れば、まだ十時。
「もう少し、耕平くんの話を聞きたい」
というよりも、声を聞いていたいと思った。
出会ったばかりだというのにおかしな話だと、千波は内心で自分を嗤う。どれだけ自分は、寂しかったのだろう。
グラスに残ったワインを飲み干して、残ったチーズは耕平が全て食べた。
二人並んで洗面所で歯を磨き、リビングの端の、千波の寝床へ移動する。
手近なクッションを抱え、夜が更けるまで、千波と耕平は言葉を交わしていた。
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