第2話 吹雪の中で(SIDE耕平)
妙なものを拾ってしまったなと、耕平は思う。
昨夜は友人宅で夕飯をご馳走になり、帰り道で路肩に停車している車を見掛けた。ちらりと確認したナンバーは湘南。旅行者が車中泊でもしているのだろうと考えながら、通り過ぎた。
バックミラーに映った、両手を振る女性の姿。
何かのトラブルだろうかとUターンして見つけたのは、新雪に埋もれた人影だった。
慌てて駆け寄って抱き起こし、目を開けた女は案の定、凍えている。
燃料は分けてやった。
見ず知らずの男の家になど行けるかと考え、逃げて行くならそれで構わない。むしろその方が、正常な思考の持ち主だと安心できる。
だが彼女は、逃げずについて来た。
凍えた体を温めるため、風呂を貸してやろう。寝床も提供できる。
今夜から吹雪になる。助けたはずの人間が死体になって発見されるなど、寝覚めが悪い。
浴槽を洗い、湯の蛇口をひねってから耕平が戻ると、女は荷物を抱えて立ったまま、迷子の子どものような顔をしていた。
子どもにはホットミルクだろうかという安易な考えで、友人の牧場からもらった新鮮な牛乳を火に掛け、彼女を安心させるための材料として名刺を渡した。
耕平が風呂から上がると、ホットミルクを飲み干した彼女はダイニングテーブルに突っ伏し、寝息を立てていた。
危機管理能力の低いこの女が、自分より年上だとは到底思えない。
軽過ぎる体をリビングに用意した寝床へ運び、布団でくるんでやったが、彼女はまったく起きる気配がなかった。
※
他人が部屋にいることなどすっかり忘れて仕事に没頭して、胃が空腹を訴えたことにより、集中が途切れた。
パソコン画面の時計を確認すると、昼どころかおやつの時間をとうに過ぎている。
両手を上げて凝り固まった体をほぐし、視界の端で捉えた光景に、ギョッとした。
普段読書や仮眠を取る時に使っている、直径百二十センチの大きなクッション。その中心に、胎児のように体を丸めた女がすっぽり収まり、眠っていた。
「忘れてた。てか、よく寝るな」
椅子から立ち上がり、眠る女の前に屈んで頬杖をつく。
黒髪のベリーショートで、化粧っけのない女性だ。心配になるほど、痩せている。目の下の隈も濃い。
そろりと手を伸ばし、小さな手を優しくつかむ。長い袖をずらし、自傷の痕がないことに安堵した。
「女一人の、貧乏旅行か?」
昨夜、給油するときに見た彼女の車の中の光景。
背もたれを倒した助手席と後部座席は寝床として使われていて、水は積まれていたが食料らしき物は見当たらなかった。
彼女は、昨夜ホットミルクを一杯飲んだきり。
何か消化の良い物でも作ってやろうと、キッチンへと向かった。
書斎の扉は開けたままにしておいた。
調理する物音と匂いに釣られたのか、目を覚ました彼女が書斎から顔を出す。
「煮込みうどん。食うか?」
「……いいの?」
「腹減ってんだろ」
彼女は胃の辺りをさすり、小さく頷いた。
大根と人参とネギを柔らかく煮て玉子とじにした煮込みうどん。好き嫌いや食べる量がわからないから、鍋ごとダイニングテーブルへ運び、好きなようによそって食えと、箸とお椀を渡した。
「こんなちゃんとした物食べたの、いつぶりだろ。……すごく、おいしい」
彼女がこぼした感想に、耕平は顔をしかめる。
「あんたさ、水だけじゃなくて食料も積んどけよ」
「車に? 持ってるよ」
彼女の言う食料は、バランス栄養食のクッキーやゼリー、そしてサプリメントだった。
追求してみれば、元からそういう食生活だったようだ。
朝はブラックコーヒーにサプリメント。昼は職場の近くにあるコンビニで買うサラダ。夜は酎ハイと軽いつまみ。
「……生きる気ねぇだろ」
「いやぁ。ハハハ」
乾いた笑いで誤魔化そうとした彼女。勘弁してくれと、耕平は頭を抱えた。
生きるのをやめるため、彼女はこの北の大地へやって来たのではないかという疑いが、強くなる。
「本のネタになるかもしれねぇし、聞かせろよ。あんたの身の上話」
「えー? 取材?」
「そ。宿代とメシ代だ」
「お金ないから助かるー」
結局彼女は、お椀一杯分だけ、うどんを食べた。
ホットミルクが飲みたいとねだられて、彼女用と自分用に淹れて、椅子に戻る。
「何のために生まれて、何のために生きるのか。考えたことある?」
聞かれ、耕平は頷く。
「それに理由を見つけようとするのなんて人間ぐらいだ。考えるだけ、無駄だ」
「そうだよねー。ハハ」
「あんたは? 何のために生まれて、何のために生きてるんだ?」
話しを終わらせようとする気配を察知して、耕平は先を促した。
彼女はマグカップを両手で包み、ホットミルクをゆっくり味わっている。
「私が生まれたのは、親のため。だって、親が産みたくて私を産んだんでしょう? だけど生き方は自分で決めないとならないとか、嫌な世界だなって、子どもの頃から思ってた」
マグカップの中の真っ白な液体に視線を注ぎながら、彼女は言葉を吐き出す。
「私は……誰かのために生きたかった。結婚して、母親になって、文句言いながらも家族の世話をしてさ。誰かに愛されたかったんだよね。でも無理だって気付いて。よくさ、仕事は充実してるけどプライベートが寂しいとか、母親や妻としての自分だけじゃなくて外で働いて認められたいとか、あるじゃん? 流行ったじゃん、そういうドラマとか漫画。それ見ててさ、どっちも持ってない私って何なんだろーって、考えちゃったんだよね」
「仕事、何してたの?」
「派遣で事務」
「彼氏は?」
「九年目で若い子に乗り換えられちゃった」
「婚活とかは?」
「したよー。おしゃれして婚活パーティー行ったり、婚活アプリに登録してメッセージのやり取りしてみたり。でもどれもダメだった。マッチングしても、その先に続かないんだよね」
苦笑と共にため息を落としてから、彼女はマグカップの中身を飲み干した。「あー。この牛乳、ほんとおいしい」と、しみじみ呟く。
「それで? 今はなんで車中泊で一人旅してんの?」
反応をうかがうように、彼女の瞳が耕平へと向けられた。
耕平は表情を変えず、視線を受け止める。
「夜、一人の家でスマホいじっててさ」
「うん」
「広告に表示された漫画をね、読んだの」
「漫画好きだな」
「まぁね。その漫画、孤独死について描かれててさ」
「重いな」
「私、こんな風に死ぬのか。嫌だなぁって」
「重ねたわけか。自分と」
「趣味もない。彼氏もいない。友達もいない。誇れる仕事も持ってない。何にもないな、私。って思ったら、なんかもう居ても立ってもいられなくなって。あのまま変わらない生活を送りたくなくて、勢いで飛び出して。気付いたら日本の最北端、目指してたよねー」
「仕事辞めたの?」
「辞めたー」
「家は?」
「解約した」
「スマホ」
「も、解約した。財産はあの車にある物だけ」
「あんたがここにいるの、知ってる人は?」
彼女は、答えない。
「正月はどうすんの? 流氷、見たいんだろ?」
「冬なら見られるものかと思ったんだけど……」
「流氷が来るのは一月下旬ぐらい」
「役場に行けば、仕事って紹介してもらえるかな?」
「移住すんの?」
「移住出来るの?」
暗く沈んでいた彼女の顔がパッと輝いたことを見て取り、耕平は苦く笑った。
どうやら彼女は、生きることを諦めたいわけではないようだ。
「移住支援制度がある。うちの村にも移住して来た人間は結構いる」
「耕平くんも?」
「俺は中学までここに住んでた。爺さんが死んで土地もらったから、東京からこっちに戻って来たんだ」
「いいよね。戻る場所がある人って」
「あんただって、ここで生活したら東京が戻る場所になるだろ」
「言われてみれば、確かにそうだね。……仕事、見つかるかな」
「……事務の仕事はない。酪農か水産業ならある。あとは老人ホームに、保育園か」
「人付き合いとか、嫌い」
「家事は?」
「一応、できる」
「飯作れる? 米を洗剤で洗ったりしないよな?」
「彼氏がいた頃はちゃんと作って食べてたよ。一人で食べるのがおいしくなくて、効率重視の食事になったの」
「なら、移住のお試し、してみるか?」
「ん? どういうこと?」
彼女はこの時のことを思い出す度、「耕平くんは壺とか絵画を買わされるタイプだよね」と言って、笑うのだ。
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