偽愛の薔薇園「しこめとびじゅう」

 女性は未登録迷子Unknownを気遣ってか左半分を仮面で覆って戻ってきた。それからタオルとあたたかいローズティーを客間に持ってきてくれた。薔薇の香りがふわりと空間を包む。

「……人海姫が荒ぶっていますね……本当にひどい嵐……何かあったのだろうけれど……あなたたちも大変でしたね……」

「ありがとう、リベルタ。体が濡れて冷たくなっていたところだ、助かるよ。……ところで、彼は?」

「あの方は……薔薇の、お世話に行っておられます……遠目からなら、少し、御顔を拝見できるかもしれません……」

 ローズティーを飲み終えたあと、女性……リベルタが通してくれた薔薇園に、大きなシルエットが見えた。本当に遠目、扉の隙間から覗くようにして目をこらすと、そこには……。

「――――ッ!」

 醜い化け物がいた。金色の鬣、体毛に、潰れた鼻、突き出た牙とぐにゃりと歪んだ二本の角、鋭い牙と窪んだ両目の中に、翡翠色の瞳だけが爛々として見えた。息を呑む。表情が引き攣る。化け物は薔薇と話しているようだった。小さな声が聞こえる。

「あの雑草娘、いつまで経っても摘み方が上手にならないわ! せっかく美しく咲いたのにあれじゃあね」

「あの雑草娘は好きじゃないけど、貴男のことは好きだから歌を歌ってあげるわ」

 あの雑草娘、とはリベルタの事だろう。リベルタはそっと目を伏せた。

「……戻りましょう。あの方は御自分の姿を見られることを嫌いますから……ああ、ローズティー、淹れ直しますね……」

 もとの客間まで戻ってくると、未登録迷子Unknownはようやく息をついた。冷汗がどっと溢れて、あの化け物のことなど頭から追いやってしまいたくなって、軽く頭を左右に振った。アレもまた童話人のひとり、なのだろう。

「案内役、に、この薔薇の花を届けてくださいな。あの方が育てて摘んだものです。あら、あなた……ひどい汗……気分がすぐれませんか……?」

「い、いえ! ……あの、さっきのアレは……いったい……?」

「『アレ』……? ……あ、あぁ、あの方のこと……でしょうか……。ふふ、わたくしと違って……お美しい方でしょう? とても素敵なお方……わたくしの愛しい童話人ひとです……」

「え……?」

「リベルタも彼に引けを取らないほど充分に美しいさ。うん、彼の鬣、僕は好きだよ」

 案内役はリベルタから受け取った薔薇の花束をいろんな角度で眺めながら言った。怪訝な表情の未登録迷子Unknownに、リベルタは察しがついたようで、少しの躊躇いのあと、童話をひとつ聞かせた。

「これは……とある醜女と美しい獣の童話です……」


 植物も何も生えない土地がありました。そこは、泡還りの海からほど近いので、潮風にみなやられてしまうのです。そんなところに、童話世界フェアリー・ファンタジアのどのエリアも追われてきた獣がやってきました。童話人の殆どが彼のことを野獣といって、醜い獣として扱ったのです。

 しかし彼は心優しい獣でした。植物たちのために大きな壁を作り、土を整え、植物たちの楽園を築いたのです。何年も何年も……それこそ、何百年もかけて。

 そこへ、またも童話人から疎まれた、とある女がやってきます。その女は生まれたときから左目が白濁していて、器量も良くありませんし、特に抜きん出て上手なこともありませんでした。何もできない不出来な醜女だったので、家人から酸性の液体を浴びせられて、左半分の皮膚がひどく爛れてしまっていたのでした。

 疎まれ、嫌われたふたりは一緒に生活することになりましたが、不幸は終わりませんでした。呪いの薔薇が、他の植物たちを根こそぎ枯らして蔓延ってしまったのです。呪いを解くには『真実の愛』で、心の底から認め合うことが重要な鍵なのです。自分のことも、相手のことも。

 ふたりは、相手のことを愛していました。けれど自分のことは愛せませんでした。綺麗な毛並みの心優しい美獣は、自分の見た目を、顔半分が爛れた醜女は、何もできないからっぽの自分の心を、受け容れることはできないのでした。そのため、薔薇はずっと咲き誇っているのです。真実の愛ではなく、偽物の愛なのでしょう。……そんなおはなし。


「……わたくしはこのままでも良いと思っています。この薔薇園も、薔薇を愛でるあの方も大好きですから……」

 リベルタは空を見上げた。あの化け物に想いを馳せる彼女は、やはり醜女などではなく、とても美しかった。

「……そうだ、聞かなければいけないことがあるのです。リベルタさん、あの……自分の名前を………見ていませんか?」

「名前さん……? あなたの? ……いいえ、いらしてません……。わたくしもあの方も、薔薇園から出ることはありませんし、尋ねてくる方など……」

「そう……ですか……ありがとうございます。……寄せてくれたお礼といっては何ですけど、ひとつ童話を知ってるんです。聞いてくれますか?」

 未登録迷子Unknownは、笑った。嘲笑った。インクがまた広がって、胸を覆うくらいになっていたけれど、未登録迷子Unknownはまだ知らない。案内役はその隣でただ笑っていた。面白くなってきた、というふうに。

「童話……ええ、あの、ぜひ」

「……これは、美女と野獣のおはなしです」


 むかしむかしあるところに、お金持ちの商人とその家族がいました。ある日、商船が難破してしまい、すべての財産を失うことになりました。しかし、その1年後、失くした財産が奇跡的に陸に打ち上げられます。他の家族は豪華なものを父親に要求しましたが、末の娘の美女✕✕は、薔薇の花が1本ほしいとだけ言いました。

 しかし、船の財産を取りにいった父親はいろんな訴訟に巻き込まれ、結局財産を手に入れる事はできませんでした。

 帰り道、ひどい雪で帰れなくなってしまった父親は、大きな城を見つけます。入ると、なんと誰もいないはずなのに、暖炉には火が灯りテーブルには1人前の食事とお酒が用意してありました。身も心も震えていた父親は、暖炉で服を乾かし食事をし、酒を飲み、眠ってしまいました。翌朝、馬車に戻る途中で薔薇の花を見つけた父親は、それを1本手折り、持ち帰ろうとします。

 しかし、そこへ恐ろしい野獣が現れて、父親に命を差し出すか、娘を嫁がせるように言われます。

 心の優しい美女✕✕は野獣のところへ向かいました。……野獣は見た目とは裏腹に、穏やかで優しく、美女✕✕を怖がらせないように気遣っていました。一緒に過ごすうちに、美女✕✕も心を開いていきます。

 そんなある日、不思議な鏡に病気をしている父親の様子が映りました。美女✕✕は野獣に頼んで1週間だけ帰らせてほしいと頼みます。野獣はそれを許しました。美女✕✕が家に変えると、父親の病気はあっという間に治りました。他の家族たちは、美女✕✕が何不自由なく暮らしているのに嫉妬をして、城に帰るのを邪魔します。約束の1週間を過ぎてしまうと、美女✕✕は今にも死にそうな野獣の夢を見ました。美女✕✕が急いで城に帰ると、夢のとおりに野獣が死にそうになっていました。美女✕✕は野獣を必死に介抱して、それから野獣に言いました。

「私は貴方を愛しています」

 その瞬間、野獣の姿が変わり、王子様になりました。実は、妖女に呪いをかけられていて、野獣の姿でも恐れず本当に愛してくれる人間を待っていたのです。

 呪いの解けた王子様は国へ帰り、美女✕✕を花嫁にしてふたりは幸せに暮らしました。おしまい。


 未登録迷子Unknownが話し終えた時、リベルタは泣いていた。カランと音を立てて左半分を覆っていた仮面が落ち、それが虚のかみきれに変わる。それを合図にしたかのように薔薇の花びらが散り、同じく虚のかみきれになって吹雪のように園を舞った。

「っ、わたくしだって! ……美しいあの方を、獣の姿のあの方を、愛しているのに! 他人を愛するだけではいけないの? 自分のことなんて好きになれないっ! わたくしは……!! ……からっぽの自分を……彼で埋める他に生き方を知らないのです……こんなの……でも、わたくしの愛の形が間違ってるだなんて思いません……認めません!!」

 泣き叫ぶリベルタ。異変に気付いた化け物が勢いよく客間の扉を開けた。咆哮し、掻き抱くようにリベルタを抱き寄せその腕に収める。案内役は飄々としていた。

「次のエリアに行こうか、未登録迷子Unknown。ほら、かみきれは手に入ったよ」

「わ、わかった!」

 化け物に気圧されていたのをなんとか奮い立たせて、案内役の後ろに続いて逃げる。化け物は追っては来なかった。ただ、リベルタを慰めるように、ただ腕に抱いていた。

「……リベルタは、自由という意味なのに、こんなに、縛られて……馬鹿みたいね……ごめんなさい、ごめんなさい、美しい貴男に不釣り合いなわたくしでごめんなさい……」


 未登録迷子が息を切らしているのに対し、案内役は息ひとつ、服や髪のひとつも乱さなかった。

「はぁ、はぁ……そうだ、さっきの頁は……?」

「アルファベットは『t』だったよ。……面白くなってきたし、この先は全部集まってからのお楽しみさ」

 案内役の視線の先には、何か果物がなっている木がたくさんあった。ここは果樹園かなにかだろうか。次の虚のかみきれになるのは一体誰だろうと未登録迷子Unknownは笑みを浮かべた。案内役に似た、三日月のような。


――そういえば、この世界に来てから月を見ていない。そもそもずっと昼だ。


「この世界に夜は来ない、の?」

「いいや? 来るさ。……まぁそんなのは些細な問題。気にすることはないさ」

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