泡還りの海「にんみひめ」

 随分穏やかなエリアだ。走って火照った身体に少し冷たい潮風が心地いい。波の音に耳を傾けていると、案内役が急に海に向かって呼び掛けた。

「おーい、人海姫にんみひめ、いるかーい?」

「にん……?」

「人海姫だよ。知らないかい? 半分が人で半分は魚の姿をした種族がいるんだ。と言っても、普段は海と混ざっているから、固体の姿がソレってだけなんだけどね。……お。来た来た」

 ザパッと音がして、その方向を振り向くと、そこには正しく未登録迷子Unknownが思うところの人魚がいた。淡桃色の髪に真珠の髪飾り、そして髪色と同じ色の魚の尾鰭、全身には上半身は薄く、腰からは濃く鱗で覆われている。見た目は幼いが、オカシの家の魔女と同じように長生きなのだろうか。

「……ねこ。なに?」

「ちょっと聞きたいことがあってね。未登録迷子Unknownの名前さんを探しているんだけど知らないかい? ついでに未登録迷子Unknownの姿を戻してほしいんだ」

「…………なまえは、しらない。ほかのにも、きいてみる? すがたは、もどしてやろう。……さん、にぃ、いち」

「わっ! も、戻った……ありがとうございます……」

「……おい、そこのカメや。ほかの、いくつかをよんできてちょうだいな」

 カメが一旦息継ぎをして、再び海へ潜っていった。それを見届けてから人海姫は案内役と未登録迷子Unknownを見て言った。

「なまえをしらないかきいてやる。……おまえたちは、われらに、なにをくれるの?」

「え?」

「しらない? おねがいをきいてやる、かわりに、たいかがひつようだ。なにごとも、とうかこうかん。……は、れいがい。……なにをおどろいている? なにもしらないのか? ……しかたない、ひとつ、むかしばなしをしてやろう」

 人海姫は、この泡還りの海についての童話をちょっと誇らしげに、けれども淡々とした調子で語った。


 『うみ』が、かたちをとったものが人海族。ねがいをかなえてやるちからをもっている。にんげんも、むしも、さかなも、すべての生き物のねがいを、かなえるちから。なぜなら、うみというのはすべての母だからだ。生き物がかんがえうることは、われらには、たいていかなえてやることができる。さりとて、われらとてひとつの生き物。ねがいを無償でかなえてやるのは、とてもつかれてしまうし、利益があまりにもない。だから、たいかがひつようなのだ。

 そのむかし、われらとのやくそくを、たがえたにんげんがいた。きぞくになりたいという、かねにめがくらんだ男だった。われらはそのねがいをうけいれ、かなえてやった。たいかは男のじゅみょうだ。うみに触れればそれでじゅみょうをもらうことができる。しかし、男はうみにあらわれることはなかった。われらはおだやかである、あらそいは好まない。ウミネコを遣いにやって、日没までにうみにふれなければ、こちらからむかえにいくぞと親切につたえた。

 男は日没までにこなかった。われらは、かなしみといかりで、うみをあらげ、あらしをおこし、そうして、男が築いたすべてを……ごうてい、女、かね、男自身も、すべてをのみこんで、うみへ還したのだ。泡になってすべてなくなった。われらは満たされ、またおだやかな日々をおくっている。泡になりたくなければ、われらに、ねがいに身合うたいかをはらうことだ。


 ――われらは偉大で、恐ろしく、優しく、平等なのだから。


 話し終わったちょうどの頃に、カメともうひとりの人魚がちゃぷんと顔を出した。

「きいてまわったが、おまえのなまえは、だれもみていない」

「……そういうことだ。さぁ、たいかを」

 案内役はさっきのエリアで有名だという宝石――人形の涙をぽちゃんと海に落とした。それから未登録迷子Unknownに小さく話した。

 キミが払える対価は童話くらいなものさ。キミの知っている物語を聞かせてやるんだ、それで対価はチャラ、名前の手がかりも貰えるし、ハッピーエンドさ、と。

 未登録迷子Unknownは、それもそうかと思っていた。だって、すでにもういくつかの童話人たちを虚のかみきれにしてしまった。忠告しても聞かない童話人もいた。……それに、自分は物語を話しているだけ、何も悪いことはしていない。そう、強く思った。未登録迷子Unknownも知らないところで、またインクが少し広がった。

「……人魚の童話をお聞かせします」

「どうわ。すき。よい、たいかになる」

「きかせろ、きかせろ」

 未登録迷子Unknownは息を吸い込んだ。


 昔々ある海に人魚が住んでいました。主人公は人魚の末娘✕✕✕✕✕✕で、よく海の城を抜け出して、人間の様子を伺ったり、人間が捨てていった物、落としていった物を収拾していました。そんなあるとき、嵐が起こりました。船から落ちた人間の王子様に末娘✕✕✕✕✕✕は恋をします。

 岸に送り届けたあとも、末娘✕✕✕✕✕✕は王子様のことが忘れられませんでした。そこで、海の魔女に頼んで人間になれる薬をもらいました。対価には綺麗な声が貰われていきました。

「日没までに人間と結ばれなければお前は泡になってしまうよ」

 人間になった末娘✕✕✕✕✕✕は、男に会いに行きます。あの日、沈没した船から貴方を助けたのは私です、と伝えようとしますが、声が出ないので伝わりません。そして、王子様は末娘✕✕✕✕✕✕と瓜二つの顔をした隣国のお姫様と結ばれてしまいました。

 悲しみに泣く末娘✕✕✕✕✕✕のもとに、姉たちがやってきて、男を刺して返り血を浴びれば人魚に戻れるのだとナイフを寄越しました。姉たちは対価を払って、末娘✕✕✕✕✕✕が泡にならない方法を魔女から教えてもらったのでした。

 けれど末娘✕✕✕✕✕✕は、自分が愛した男を刺すことがどうしてもできず、泡になってしまいました。そして風の精霊に転生して世界を巡りました。……おしまい。


「……これは珍しく王子様と結ばれない童話なんです。現代だと結ばれる話が有名ですけど、原作はたしかこんなだった……気がします」

 未登録迷子Unknownは人海姫たちの表情を見て、やはり自分の知っている童話は受け入れられないのだと知った。

われらと似たすがたのものが、ねがいをかなえられず、愛のために泡に還ったというの?」

われらのおこないを、海の魔女にたとえるとは! ふけい、ふけいである!!!」

 波が荒れる。天候が悪く、大粒の雨が降ってきた。それらが未登録迷子Unknownたちを飲み込もうとしたとき、海の生き物たちが虚のかみきれに変わった。浜辺にいたカニだった頁を拾う。アルファベットは『i』だ。

「な……われらの子らが……虚のかみきれに……?」

 人海姫たちが混乱しているうちに逃げる。雨をしのげるところに行きたい、濡れた身体が潮風でスッと冷め、このままでは風を引いてしまうかもしれなかったからだ。

 案内役は迷うことなく、海からだいぶ離れた少し高台の薔薇園まで一直線に走ると、ごめんくださいと声をかけた。ビニールハウスのガラス版のようだ。大きな家のなかにはたくさんの薔薇が植わっている。

「ひどい雨なんだ、薔薇園で休ませてはくれないかな?」

「あら、大変ね。どうぞ」

 迎えてくれたのはおそらく家主だろう。栗梅色の髪に、黄色いワンピースを来た美しい女性なのだが、左半分がひどく爛れている。未登録迷子Unknownは思わず目を伏せてしまったが、案内役は慣れているようだ。

「あ……わたくしったらいけないわ……ひどいものをお見せして申し訳ありません……。さぁ、中に入ってください、体が冷えてしまいますから……」

 雨が止むまで中で休ませてもらうことにした。

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