第9話

 ゆっくりと太陽が動いて、気づけばもうあと少しで、空が橙色になる頃合いだった。どんっと音がして振り返ると、トーイが扉を開けて、屋上に足を踏み入れるところだった。

「待たせて悪かった。さあ、続きを始めよう」

 トーイが座るのに合わせて、僕もその向かいに座った。

「あれからいろいろ考えたんだけど、どうも本当に、ニーヤ君だっけ、彼が、あんな垂れ幕の文章ごときで、満点を取り逃すかと思って、それで少し彼について調べてみた。そしたら、彼、もとは一番上の機関にいたらしいじゃないか。それに、一度を除いて、君と私みたいにすべての試験、満点を取ってる。なのに、今回だけ、人生で二度目のミスをしてるのは、普通に考えてちょっとおかしい」

 たしかにこれだけ聞けば少しおかしいと思うかもしれないけど、僕は彼の人生で初めての敗北を知っていた。

「トーイがニーヤについて調べたっていうなら、彼の人生で最初のミスも知ってるということだね」

 トーイは無言で軽く頷く。

 彼が最初に失敗したのは、最後の最後、数学者としての適性試験だった。その試験は、一つの未解決の命題を証明するというもので、最初に証明できたものだけに数学者としての資格が与えられるというものだった。彼は惜しいところまで行った。ほとんど正しい証明を彼は提出した。でも、焦りだったのだろう。その証明には欠陥があった。それでも、致命的な欠陥ではなく、もしもそれが人生を決める試験などではなかったら、彼はそれに気づけていただろう。でも、実際は気づけなかった。そして、証明が返却され、その欠陥に気づいたときには、もう他の者が証明し終えていたのだった。

「彼は天才だったけど、プレッシャーには弱かった。今回もそれと同じなんじゃない?」

 彼が数学者になっていたという未来もあったのかもしれない。でもその未来はこの世界ではなかった。

「だからこそだ。それが人生を決めると言うほどの試験だったからこそ、ニーヤ君は焦ったんだ。それが、今回はどう?たとえにニーヤ君を名指しで指名したところで、ホーマが直接的に何かできる訳じゃない。せいぜい、彼らに出来るのはこけおどしくらいで、実力行使をしてくるわけじゃあない。それなのに、その程度で、彼は、自分の人生を決めるときくらいのプレッシャーを感じたというのか?」

 なぜだか、トーイの口調は強くて、僕は少し身を引いた。

「それに、そもそも、あの文章の暗号に彼が気づく必然性も分からない。あんなもの、結構なこじつけじゃない。いくらニーヤ君といえども、気づかなくても全然不思議じゃない。けど、彼はたぶん君の言うように、あの暗号に気づいたんだろう」

 そこで、彼は一度口をつぐんでしばらく黙った。吹く風が少し肌寒かった。

「ニーヤ君があの暗号に気づいたのは、そもそもあれを見た瞬間に、それが自分に向けたものだと暗号を解かずとも気づいたからさ。彼がプレッシャーを感じたのもホーマが彼を名指ししたわけじゃなくて、あれがホーマじゃない別の、彼の人生を左右するほどの誰かからだと分かったからだ。じゃあ、それはいったい誰なんだろう?」

 空はだんだん青から黄色に黄色から橙色に近づいていた。腕時計の文字盤は午後五時十八分分四十四秒を指して、止まっているように見えた。

「話は戻るけど、午前中、ガンダルフ君が、私がこの施設に来てすぐにあのホーマの文言を噂として流したって私は言ったけど、それは私に対するものじゃなくて、彼に対するものなんじゃないかとさっき寝ている間に私は思いついたんだ。そう考えると、じゃあなんでわざわざ君がそんな噂を流したのか。さっきの話からホーマを語って彼を脅すためじゃあないのは確かだ。そこで、私は、管理人さんに会いに行った」

 管理人と聞いて、体がビクッとなりそうになって、何とか抑えたけど、耳だけは少し動いてしまった。

「私が思った通りだったさ。ガンダルフ君、君は彼がホーマの手の者だということを管理人から知らされていたんだ」

 確かに、トーイの資料を貰いに行ったとき、同時に、彼のホーマ派疑惑の報告書も手に取って目を通していた。どうやら、そのことを管理人はあっさり話したようだった。一応、彼も中立だ。彼もトップである以上、虚偽の発言は出来なかったらしい。

「それを知ると、今までの事件全体の見方が変わる。君は彼をホーマの手の者だと暗に告発していたんだ。そもそも、ホーマの経典を機関の施設に流布したりするのは、ホーマの手の者の仕事だ。彼らにとっては自分たちの思想を知ってもらって、支持してもらうのが目的だから。それなのに、自分が手を回していないのに、そんな噂が流れるのは、誰かがここの機関にホーマの手の者がいることに気づいて、わざと噂を流すことで、本物のホーマの手の者をあぶりだそうとしてるんじゃないかと彼を疑心暗鬼にさせるためだった」

 空には雲がなかったけど、僕の頭の中では、少し雲行きが怪しくなってきていた。

「そして、極め付きは、あの垂れ幕の文章だった。彼からすればあれは告発状のようなものさ。ホーマの文章のように見せて、かつ最後に君の個体識別番号が入れてあるなんて、彼からすればこれ以上のプレッシャーはないだろうから。わざわざ君の個体識別番号が書き入れられていたのは、君が、彼がホーマであると気づいていることを直接的に伝えるためのものでもあったんだ。なんせ、ホーマだということがばれれば、いくらサラブレッドとはいえ処分は免れないからさ。望んだ道ではないだろうけど、エリート街道を走ってきたのに、彼は崖から落ちてしまうことになる」

 トーイがしゃべるのをやめたのに合わせて、軽く僕は息を吐いて、吸ってから言葉を紡いだ。

「でも、仮にそうだとして、結局、僕はどうしたかったのさ?」

「普通のホーマの人員なら、処分しやすいけど、なんせニーヤ君はサラブレッドで、サラブレッドの人種はこの世界のトップの三割を占めてるからね、世論のことも考えると、そんなに大っぴらに処分は出来ない。だから、君は一芝居うって、私に彼が負けたことを理由に彼を処分しようとしたんだ」

 ふふふと、意地悪そうな笑みをトーイは浮かべていた。トーイの前だけど、僕は大きなため息をつきたくなった。

「まあ、一応、筋は通ってるけど、そもそも、僕と管理人は、別の理由を作り上げて、彼を処分しようと思ってたからね。最初から反論させてもらうと、ホーマの文言の噂は、彼の自作自演だよ。たぶん、自分がホーマの手の者だとバレたらしいことはホーマの本部から聞いていたんだろうね。それで、あえてホーマとしての活動をすることでこっちの出方をうかがってたんだろう」

 それじゃあ、あの垂れ幕はどういうことになるんだと、トーイは首を傾けた。

「あれは、僕も管理人も想定外だったんだ。おそらく、こちらに彼の処分を決められると、程度が重くなって、彼を今後、ホーマの駒として利用しづらくなると思ったんだろうね。サラブレッドの人員は貴重だからそんなに簡単に切り捨てられなかったんだろ。だから、あっちが一芝居打って、僕と管理人に彼を処分せざるを得なくしたんだ。君をトップにさせないというのは上からの命令だったからね。補佐官としての任務失敗で軽く処分されて、別の機関に飛ばされるというのがホーマの計画だった。あの垂れ幕も、彼に対するホーマからの指示だったんだろうね。あえて満点を取らずに君に負けろという」

「じゃあ、その考えを踏まえて、それでも私が犯人だというかい?」

 一度、二人とも黙って、辺りは静かになる。思えば随分と話していた。

「君がホーマだ。トーイ」

 僕は左手でトーイを指さした。

「君がこの機関に来たのも全部、彼の処分を軽くして外の機関に飛ばすことが目的だったんだ。部活を設立するというのも、全部、一連の君のシナリオ通りだった。そして、君のシナリオ通りに事は進み、彼は、ここを去った。さらに、ついでにこの機関のトップに勝って、ここの施設の最高権力者となって、ホーマの思想を浸透させるのまでが君の計画だったんだ」

 僕が口をつぐんでも、トーイはすぐには口を開かなかった。秒針は動いて、ちょうど百八十度回ったところで、トーイはいきなり、はははと笑った。

「それは私がホーマの一員だという事実があって初めて意味を成す推理さ。でも君には私がホーマの一員だという証拠を持ってはいないから、全部、君の妄想だ。筋は通るが、土台が仮定だから、論理としては弱い。ニーヤ君がホーマの諜報員だということに基づいたガンダルフ君が犯人だという私の説の方が、土台が強固な分、君の推理よりも強い」

 そして、さっき僕がしたように、君が犯人だガンダルフ君と、トーイは右手の人差し指で僕を指さしてきた。やられる立場になって、あまり人に指を指されるのは気分が良くないなと反省した。

「それにだ、ガンダルフ君、もしも私がホーマなら、そもそもどうして私が、君と争うのに今回の事件を選んだということになるのさ?」

「僕には君がホーマだということが絶対に証明できないという自信でもあったんじゃないの?」

 はあと、初めてトーイがため息をついた。

「君は、自分がサラブレッドで、この施設で、余裕で、トップで君臨しているということ忘れてるんじゃないか?相手がサラブレッドで、たぐいまれなる頭脳の持ち主っていうのに、わざわざ自分の本性がばれるような勝負を挑むと思うか?私がホーマだとして、今回の勝負を選んだのに、なんのメリットも私にはないよ、リスクしかない」

 それは確かにその通りだと頷いた。

「私はさあ、最悪、この勝負、負けてもいいと思って、君に挑んだのに。正直、君には感謝したんだ。今回の事件、私に勝負の機会を与えるために全部仕組んだんだろ?」

 真面目に見つめてくるトーイから目をそらして、空を見上げた。いつの間にかもうだいぶん空は橙色に近くなっていた。

「もう五時半だ。勝負は終わり。ここからは本当の話をしようじゃないか?」

 トーイが話しかけてくる。手を上げて腕時計を見ると確かにもう五時半だった。

 僕の負けは僕自身が一番分かっていた。無駄な反論だった。

 僕はトーイがホーマじゃないことは彼の報告書を読んで知っていた。

 そして、全部自分の仕業だというのは最初から当たり前のことだった。

「そこまで、お人よしじゃないよ。僕は君が負けたら、君をホーマとして、処分するつもりだったし、管理人には独断で、事のついでにニーヤの処分の理由を作った。僕はただ君を試しただけだよ」

 しゃべりすぎていつの間にか僕の声はかすかすになっていた。そんな声を聞いて少し笑いそうになった。

「ニーヤ君のことだって、君は彼のことを考えて、後に重い処分が下る前に、あえて処分が軽くなるようにしたんじゃないのか?」

 それもお人よしだと言いたかったけど、あの日、雨の日のニーヤを思い出して、やっぱりそう言うのはやめた。

「どうして、ニーヤがホーマに入ったかトーイには分かるかい?」

 まだ顔を上げて空を瞳に映している僕には、トーイがどんな表情をしているのか見えなかった。

「彼は数学者になりたかったそれだけなんだよ。いまのこの世界では、本人の意思にかかわらず全ての未来が本人の能力に合わせて、適合性だけで決まる。たぶん彼みたいに数学を研究したくなくても、才能をもつ人はその仕事についてるはずなんだ。本人の意思は関係ない。その分、無駄は生まれないし、合理的なシステムだよ。まさに、個人は人類を発展、存続させるためのただの部品にしかすぎない」

 トーイは何も言わなかった。

「彼はこの世界に絶望しただろうね。生きる意味を失くしたんだ。それでも彼は数学を研究する職に就きたかった。だから、ニーヤはホーマに入った。たとえその組織がまやかしの自由を求めて革命を起こそうとする組織だとしても、彼が数学者になるには世界を変えるしかなかったんだ」

 僕には生きる意味はない。でも誰もがそうだという訳ではもちろんないのだ。人には感情がある。だから合理的ではないし、機械の部品になることは出来ない。そして、その分、美しい。

 顔を下げると、ニーヤは目を潤ませて、泣きそうに微笑んでいた。

「私が、ここに来たのは、さっき君は、ホーマの思想を浸透させるためだと言ったけど、案外、似たようなことだったんだよ」

 今度は僕が黙っている番だった。

「私はこの世界が大っ嫌いだ。人類の発展しか考えない合理的な世界が大っ嫌いだ。人はもっと自由で、みんなが一人一人、生きる意味を持ってるんだ。たとえそれが幻想にすぎないとしても、私はそのために生きてる」

 そこで、一度口を閉じて、息を吸うと、空に向かってトーイは叫んだ。

「私が目指す世界は、人類とか未来とか世界とか全部無視して、個人が自分のやりたいことをやりたいように生きれる世界だー」

 その声は、たぶんそのまま空まで届いたことだろう。もしかすると天国までも届いたかもしれない。

「だから、私はここに来た。自分の目指す世界にこの世の中を作り替えるためにここに来た。君を味方に引き入れて、部活を創り、ひいてはこの施設を味方につけて、ここを始点に世界を変えようと目指してここに来た」

 トーイはキッと僕を睨んだ。

「だからガンダルフ君、君の力が必要なんだ。全サラブレッドの中で君だけが、自分に正直に生きているから」

 そうして、トーイは僕に対して頭を下げた。

「だからどうか私の味方になってください」

 トーイの後ろにはもうほとんど夕焼けと言ってもいいような綺麗な橙色が一面に広がていた。もうちょっとで一番きれいな色になりそうだった。

「昔、一人のともしびだいだいがいた」

 トーイは頭を下げたままだった。

「彼女が作ったのが今のホーマと呼ばれる組織だった。もともとは、その組織は本当に自由を求める者たちが集まった組織だった。でも人が集まってくるにつれて、だんだんと濁りがたまっていた。自由といっても綺麗なものばかりじゃない。自分の私利私欲のための自由を、まあ、それが権威や権力だけど、そういったものを求めて入ってくるものの方が多くなった。そうなって、彼女は権威権力を求める者がクーデターを起こす前に、自分から身を引いていなくなった。今ではどこにいるのか……、立ち入り禁止区域のどこかにいるという噂も聞くけど……」

 僕は自分の左手を見て、その手を強く握って拳にした。

「君はそれでも、自分のために戦える?」

 トーイが頭を下げているその下には、小さな水たまりができていた。右手の袖で目をぬぐって顔を上げた。彼女は、笑顔だった。

「それでも、何があって、私は、私のために世界を変える」

 その顔にはどこにも曇りがなかった。

 右手を差し出すと、彼女も右手を前に出して、僕たちは初めて握手をした。

 変わらないものはない。でも、変わることが悪いとは限らない。

 いつかの少女が求めたものが、そこには在った。

「いつか絶対戻ってくるから、そのときまで――」

 彼女の言葉が耳に届く。僕は変われないけれど、世界はいつの間にか変わっていく。

 トーイの後ろには、一番綺麗な色が浮かんでいた。その色は、彼女たちが持つ、橙色とも紅とも朱色とも言える炎のように透き通った美しい色だった。

 ともしびだいだいの色だった――。


Fin.

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燈の橙と灰色サラブレッド 沫茶 @shichitenbatto_nanakorobiyaoki

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