第8話

 試験の日、僕が施設に来るまでにいったい何が起こっていたのか、最初にそれを教えてきたのは、試験の次の日、管理人からだった。

 最初に誰がそれを目撃したのかは、聞き取り調査をしているが、はっきりしないとのことだった。

 ちょうど、試験を受けに多くの構成員が施設の出入り口を通って敷地に入ってきているときだった。気づけば施設の建物に屋上から大きな垂れ幕が垂れていたそうだ。みんな傘をさしていたから、なかなか気づく人がいなかったらしい。縦十メートル、横十二メートルのそれにはこう書かれていた。

「Lets、まがい物を取り除こう

 馬鹿な、あなたがたは気がつかない

 あなたがまがい物だということを

 ひそかに変わってしまったことに

 S10822」

 僕が管理人に呼び出されたのは、この施設の最高権力者というだけじゃなくて、文章の最後に書かれたS10822という番号のためでもあった。S10822は紛れもない、僕固有の個体識別番号だった。

「一応聞くが、君ではないだろうね?」

「もし僕が犯人なら、トーイの個体識別番号でも書きますよ」

 管理人もそれはそうだと億劫そうにつぶやいた。最近では、ホーマのこともあるし、上への報告が大変なのだろう。

 その時は簡単な説明を受けてすぐに解放されたが、この事件が、トーイとの勝負に絡んでくるとは面倒なことになったものだと、階段を登りながら思った。

 まだ、屋上にはトーイの姿はなかった。まあ、一時間前なので、当たり前と言えば当たり前だった。水筒とサンドウィッチの入った袋を横に置いて、屋上の縁に座って、ぼんやりと空を眺める。今日は風もなく、日差しの暑さがじかに感じられた。

 いつもは、考え事をしないためにここにいるのに、今日は推理という頭を使う作業をするためにいるというのがなんとも皮肉なように思えた。とはいえ、屋上を決戦の場所に指定したのは僕の訳なのだから自業自得と言えば自業自得だ。でも、施設の中で唯一、盗聴器と監視カメラがないのがここなわけだから仕方がない。

 ドンっと大きな音が響いて、反射的に腕時計に目を移すと、もう試合の五分前だった。

 振り返るとニーヤが屋内からここに出られる扉を開けて、屋上に出てくるところだった。両手にはパイプ椅子を引っ提げているようだった。

「椅子ぐらいいるだろ。ガンダルフ君のも取ってきたから、受け取ってくれよ」

 出来る限り速足で取りに行って、短くありがとうと言うと、どういたしましてと気負わない声をトーイはかけてきた。

 午前十時、僕らは向かい合って、パイプ椅子に座った。

「さあ、始めよう」

 出来るだけ重々しくしゃべるトーイが少し面白くて、笑いそうになる。

「それで、犯人は分かったの?」

 出来るだけ平静なふりをして口を開く。トーイはこちらを向いていないので、笑いそうになっていることには気づいてなさそうだった。

「犯人は君だ、ガンダルフ君」

 またもや、ゆっくりと重みを掛けたトーイのしゃべりに僕はとうとう、吹き出してしまった。

「笑うなよ。こっちは少しでも真面目な感じを出そうとしてるのに」

「ごめんごめん。でも探偵が犯人を追い詰めている訳でもないんだから、もうちょっと気を抜いて、僕と議論するくらいの気持ちでしゃべってくれないかな」

 笑いながらそう言うと、わかったよと、トーイは頭を掻いた。

「それで、ええと、そう、犯人はガンダルフ君、君だと私は思うんだ」

「まさか、僕の個体識別番号が書かれてたからとかいう理由じゃないだろうね」

 まっさかあと笑うトーイを見てほんとかなあと疑いたくなった。

「じゃあ、僕の方から言わせてもらうけど、僕は君が犯人だと思うんだけど」

「ははは、お互いがお互いを犯人扱いか。まあ、いいけど」

 別にこの推理勝負の目的は犯人を見つけることにはない。

「そうそう、先に言っておくけど物的証拠は一切上がってないらしいよ。あとあれを設置した犯人の目撃情報もない」

 どちらがもっともらしい合理的な推理ができるかがこの勝負の焦点だ。

「うんじゃあ、こっちから始めるけど、私はまず事件が起こる前から噂になってた『この中にまがい物がいる。人間であって人間ではない物。まがい物は本物をまがい物に変え、やがては、全員がまがい物になる。我々は、まがい物を探し出し、排除せねばならない』って文言が気になったんだ。これほとんどの構成員は知らないと思うけど、ホーマの経典の一節目の最初のところなんだよ。普通ならこんな文言は出回らないし、恐らく誰かが流したんだ。ここの施設にはホーマの手の者が紛れ込んでる」

 ホーマの手の者かと、僕はつぶやいた。

「そう考えると、試験の日のあれも内容的にホーマの仕業なんじゃないかと思えてくるんだなー。ま、そこまで仮に誰かが考えたとして、あれはホーマの仕業で終わりだろうし、管理人さんも上にはそう報告したんだろうさ。最近、何かとホーマは自陣の息のかかった者を色んなところに送り込んでるからさー。でも、時期とタイミングがちょうどすぎるんだよね」

 そこまで言って、トーイはちょっと御免と言って、ペットボトルを取り出して、水分を喉に送り込んだ。色が濃い緑色だから、多分緑茶だろう。

「ああ、うまい。ええとそれで、そもそもホーマの活動っていうのは、基本的に私たちや君たちのような人を取り除いて、合理的な世の中を変えて人々に自由を施すっていう集団だろ。まあ、実際のところは権威主義の復活をもくろむ集団だけど。それでだ、ちょうど噂が流れ始めたのが、私が入ってすぐ、でかでかと犯行声明とも取れる垂れ幕を掲げたのが、試験当日。どう考えても、私に対してそれらが行われたようにしか思えないんだ。特に試験当日のやつなんか、私に心理的負担を掛けさせて試験でケアレスミスを誘う意図なんじゃないかと思えてならない。それで、ここまで考えて、かつ私が君にした宣戦布告を考えると、これがホーマの仕業を装って、君が全部仕組んだことじゃないかと私には思えるんだなー」

 もしそうなら、僕はとんだ手間をかけて何も得られなかったことになるねと答えると、トーイの顔が笑顔になったので、少しイラっとした。

「じゃあ、個体識別番号も、僕の仕業だと君にプレッシャーをかけるためだと?」

 てっきり断言してくるかと思ったのに、そうなんじゃないのかなと、語尾を濁して、トーイはまたお茶を飲んだ。

「それじゃあ、こっちも言わせてもらうけど、僕がトーイにプレッシャーをかけた言うのなら、僕は君がニーヤにプレッシャーをかけたんじゃないかと疑ってるんだけどなあ」

 うーんっとトーイは唸った。

「トーイ、君、ほんとは分かってるでしょ。垂れ幕に書かれていた文章がなにを意味するのか」

 ええっと言うニーヤの声は演技感が強かった。

「あれの改行されてる最初の文字だけ取ると、L、馬、あ、ひ、になる。さらにローマ字にして頭文字をとると、L、B、A、H。これにまた手を加えて、B、A、Hをアルファベット順で何番になるか考えて、数字に置き換えるとL218。あいつの個体識別番号はL21890だ。ご丁寧に、あいつの愛称のニーヤの218の部分だけ置き換えてる。一連のことがホーマの仕業だとしたら、君たちだけじゃなくて僕たちも彼らの標的なんだよ。しかも、君の推理とは違って、明らかに、あの文章はニーヤに当てたものだよ」

 軽くまくし立てて、のどがカラカラになってきたので水筒を手に取ると、その隙に、トーイがまた話し出した。

「ということは、君は、私が噂を流し、ホーマを装って彼をピンポイントで名指しして、彼にプレッシャーを与えたって言いたいのか。うんでもって、彼は試験でうっかり間違えて、今の状況があるという筋書きか」

 その通りと答えると、トーイは唸りながら頭を抱えた。

「その解釈だとどうして君の個体識別番号を私はわざわざ書いたことになる?」

「僕に対する嫌がらせと言いたいところだけど、たぶん暗号のヒントといったところだろうね。わざわざLetsと書いたのも、同じくヒントのつもりでそうしたんじゃないかな」

 目の前のトーイはさっきよりも唸って、より地面に近いところまで頭を抱えている。

「それじゃあ、つい最近来た私が噂を流して、一人であんな大きな垂れ幕を垂らしたっていうのか?」

「少なくとも不可能ではないでしょ。君は順調に人脈を広げていたから、やろうと思えばできなくもない。僕はここでは嫌われ者だからね。僕をトップから引きずり落とすためなら喜んで手を貸したかもしれない」

「というか、そもそも、私がニーヤ君のことを管理人補佐って知らなきゃ、わざわざ彼を脅迫しないだろ」

「一言もニーヤが補佐官なんて言ってないのに知ってるってことはあらかじめ情報収集してニーヤが管理人補佐だということも、君にここの施設で勝てるとしたら僕とニーヤだということも調べてたんでしょ」

 トーイは頭を下げたまま、はーっとため息をついた。

「まあ、どちらにしろ、あの文章がニーヤに当てたものである以上、ニーヤを引きずり落とす必要のあるのは君なわけだから、今のところ君が犯人の最有力候補だと思うけど」

 トーイはもう唸ることもやめて、ただただ体を前に折り曲げて、床に当たりそうなくらいまで頭を下げていた。その状態が一分くらい続いて、手持ち無沙汰になった僕は、気が緩んだのか、グーっと腹の虫が鳴ってしまった。それに合わせて、トーイはがばっと上体を起こして、はははと乾いた声で笑い出した。

「ああ、駄目だ、駄目だ。午前中は本当に頭が回らない。眠いし、しかも腹も減った。今の段階では君が優勢ってことで、いったん休戦して、午後三時半から再開ってことでいい?」

 時間が減れば減るほどトーイが劣勢にになるわけなので、特に異存はなかった。僕もおなかがすいて来ていたし。

 僕がサンドウィッチをほおばりだしたのに対して、彼女はおにぎりをほおばっていた。前の時と言い、彼女は多分和食が好きなのだろう。お茶も緑茶だった。

「ガンダルフ君のサンドウィッチ、何が挟んであるの?」

 今日の朝、手作りしてきたもので、何を入れたのかはちゃんと記憶していた。

「今食べてるのは、ハムとスライスチーズとレタスにキュウリ、それとトマトかな。パンの内側にはマーガリンを塗って、マヨネーズも少し入れてある。こっちの袋に入ってるのは、卵サンドだね。トーイこそ、おにぎりの中身は何なんだい?」

 ああこれね、と言ってトーイはわざわざおにぎりを半分に割って見せてくれた。腹の割かれたおにぎりの中身はただの白い米が見えるだけだった。

「なーにも入れてないんだ。味付けは塩だけ。米がいいやつだから、この方がコメの味が引き立つ。ちなみに塩は少し粗目のやつだ」

 たぶん、ここの構成員のなかでもおにぎりの味付けが塩だけというのはトーイくらいだろうなと内心で呟いた。たぶん口に出すと面倒なことになるだろうから。

「ところで、ガンダルフ君はどうしていつも屋上にいるんだい?」

 黙々と食べて、卵サンドを手に取ってかぶりつこうとしたところで、唐突に、トーイが話しかけてきた。そのまま一旦、トーイのことは無視して、卵サンドにかぶりついてゆっくり咀嚼して、味を楽しんでから、水筒の烏龍茶で口の中を洗い流して、口を開いた。

「できるだけ、空に近いところでいたいからだよ」

 目を見開いて、トーイはおにぎりを口にしながら、首を軽く傾げた。

「君が死後の世界を信じるか信じないかどうかは知らないし、僕もそんなものはないだろうと思ってるけどね、もし、天国と呼ばれるものがこの世界のどこかにあるとすれば、空のどこか人には知覚できないとこにあるんだろうなと僕は思うんだよ。少なくとも地上にはない。天上の世界は、僕が思うにこの世のどこよりも合理的だから、合理的ではない僕たちが住む地上にはないんだ。地上に神はいない、それは正しさの基準がないことだし、僕たちが合理的に生きられないことでもある。そもそも人間自体が不合理だ。正しそうで正しくない」

 気づけば、トーイはおにぎりを食べ終え、僕はさっきから食べかけの卵サンドを左手に握っていた。パンが指の圧で手のひらの形にへこんでいた。

「少し話がずれたけど、本当に合理的で正しいものがある世界があるならそこに行ってみたいんだよ。そこは多分、とても美しいから。青空が澄んでいて綺麗なのもそこに美しい世界があるからだと思うと、少し安心するんだ。だから、僕はいつもここにいるんだよ」

 言い終えた時、ちょうどトーイは緑茶を飲んでいるところで、急いで飲み込んで少し咳き込んでいた。

「うん、正直ってあんまり言いたいことがよくわからないけど、要するに君は死にたいのか?」

 歯形の残った卵サンドを俯いて見ていたけど、トーイの言葉を聞いてはっと顔を上げた。

「あるいは、そうかもしれないね……。昔、君と同じ人種がこの施設にいた時期があったんだけど、もうどこの機関の施設にも彼女はいない。もうとっくにどこかで死んでるんだろうなとここで風に吹かれながらたまに思う。そういうとき、彼女は多分、ちゃんと意味のあるところにたどり着けたんだろうなと空を見上げるんだ」

 トーイは一言、分かったと言って、屋上から校舎の中に入っていった。パイプ椅子の背にもたれて、ふんぞり返って青空を見上げた。一瞬、そこに浮かぶ天国と彼女の姿が見えたような気がした。

 それから、午後三時半の五分前までトーイはわざわざ屋上に寝袋を持ってきて、ずっと眠りこけていた。その間、久しぶりに僕も仰向けに寝っ転がって、空を見ながらいつの間にか、寝息をかいていた。

「ふああ、よく寝た、よく寝た。お陰で、だいぶん整理できたみたいだ」

 そんな声を聞いて、体を起こすと、トーイが寝袋から抜け出して伸びをしているところだった。固い床で寝たから、体が凝り固まってしまった僕も、あくびをしながら、手を前に伸ばして上にあげた。

「さてと、ちょっと聞き込みしたいことができたから、行ってくる。遅くても午後五時ぐらいには戻ってくるから」

 一方的にそれだけ言うと、寝袋をひっつかんでトーイは逃げるように校舎の中に消える。このまま戻ってこなかったら楽なのにと、屋上の縁に座って、軽くあくびをした。

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