第6話
ニーヤの言うところの決戦の日は朝から雨が降っていて、もちろん空はどんよりとした鉛雲に占められていた。
いつものように服を着替え、宿舎から出るころには、起きた時よりも雨音が大きくなっていた。宿舎から機関の建物の中に入るまで、誰一人として僕のように歩いている人はいない。普通の機関の構成員は、もうとっくに建物の中に入って、必死に今日の試験範囲のノートなりプリントなり参考書なりを見ていることだろう。僕が機関に着く時刻はちょうど試験開始五秒前、いくらなんでも、そんなに余裕のある人はいないようだった。
トーイとしゃべって以来、一度も足を踏み込んでいない僕のクラスの部屋に入って、自分の席に座り、筆記用具を出したところで、ちょうど試験開始のはずだった。本来なら。でも、担当の教官が入ってくることもなく、そこで初めて、クラスの人員が自分の指定座席にも座らず、数人のコロニーを複数作って、ざわめき合っているのが視界に入ってきた。
「いったい、あれ、誰の仕業だよ」
「トーイさん、ここ教えて」
「ねえ、そもそもあれ、どういう意味なの?」
「あ、ガンダルフが来てる」
「もしかして、ホーマからの宣戦布告か?」
「試験、早く始まって欲しいな」
口々にしゃべる人の声を拾って、わかったことと言えば、僕が来る前に何かが起こって、そのせいで、試験の開始時間が遅れているということぐらいで、詳しいことは会話からは分からない。ただ、なんとなく、面白がって、怖がっているような雰囲気が室内に充満していた。
さっきトーイと言う声が聞こえてきた方向を向くと、トーイが笑顔でクラスメイトにしゃべっているところだった。周りの声がうるさすぎて、何を言っているかは聞き取れないけど、どうやら、相手の分からないところを説明しているようだった。理解できたのか、相手が途中でいなくなると、さっきから僕が見ていたのを見透かしたようにこちらを見て、ニヤリと笑ってきた。その表情は、さっきまで話していたときの笑顔からは想像できないような、いじわるそうなものだった。
「はい、はい。全員席について。あと、一分後に試験を開始します」
結局試験が始まったのは、僕が座ってから、七分後だった。それまでは、窓から見える、雨粒と、その上に見える雲を眺めていた。雨脚は、さらに強くなっているようだった。
早々に、試験問題を解き終えた僕は、頬杖をついて、空を見ながら、今日の朝の出来事が一体どんな影響をこの施設にもたらすだろうかと、そのことだけが気がかりだった。
全日程を終えて、試験から解放されたのは、いつもなら僕が、そろそろ宿舎の方に戻ろうかなと思い始めるころ合いだった。まだ雲は分厚く空を覆いつくして、雨粒を地上に落としていた。そのせいで、いつもならまだ随分と明るいのに、もう随分と他人の顔がよく見えないくらいの暗さで、僕が来るのを待っていたかのように、機関の出入り口に立っているのが男だということくらいしか分からなかった。
「雨は嫌いだわー。まっ、晴れの日だって別に好きじゃねーんだけどな」
でも、声としゃべり方を聞けば、ニーヤであることは多分間違いがなかった。
「大丈夫そうなのか?」
「うん、まあ、多分ね。九割九分五厘くらいの正答率かなー。これなら大丈夫っしょ。いくらそういう人種とは言っても、下の機関でいたぐらいだし。最悪、俺が負けても、お前が負けることはないしなー。なんたって、正答率百パーセントだもんなー、お前は」
お気楽そうに話すニーヤのことを横目に見ながら、脳内では、彼から貰ったトーイの資料の数ページを引き出して、読み直していた。彼女のこれまでの経歴を見る限り、僕にはニーヤのように楽観視は出来なかった。あえてニーヤに言うことはないけど、今回の勝負は、延長戦にもつれ込むというのが僕の予想だった。
それからは、二人とも無言で、宿舎まで並んで歩いた。みな疲れて先に帰ったのか、通行人は僕たち以外に見かけなかった。黙っているせいで、雨音がむやみに大きなように感じる。結局、今日は晴れ間が見えることはなかった。
ニーヤとは、もうちょうど一年の付き合いになる。先に僕がこの機関にいて、後で派遣されてきたのがニーヤだった。でも、年齢的にはニーヤの方が僕より少し上だった。
僕とニーヤはサラブレッドと呼ばれる人種だった。僕らの人種は彼女たちよりは多いけど、それでも全人口に占める割合は非常に少ない。よくて、機関の支部に一人いるかいないかだ。だから、自分以外のサラブレッドに会ったのは、ニーヤが初めてだった。
「初めましてー。個体識別番号はL21890でーす。一応、構成員扱いだけど、実務は管理人の補佐という訳で。これから、よろしくなー」
屋上で、今と同じように風に吹かれているとき、いきなり、そうニーヤは声をかけてきた。事前に情報網から、ある程度のことは知っていたのであまり驚かなかったけど、なんとなく馴れ馴れしい奴だというのが第一印象だった。しかも、髪は金髪だった。でも、それは染めているとかではなくて、僕の髪の毛が灰色であるのと同じ理由だった。
これはあまり構成員の中でも知られていないけど、一つの施設には最低でも一人、構成員として管理人の補佐が紛れ込んでいる。その全員がサラブレッドという訳ではもちろんなく、むしろかなり珍しいケースだった。おそらく、僕に対するささやかな嫌がらせとしてニーヤが補佐官として派遣されたというのが僕の見解だった。
宿舎の中に入ると、疲れたから、飯食わずに寝るわー、と言って、食堂とは反対の方にニーヤは足を向けた。そうかと短く言ってから、多分最後になるだろうと思って、口を開いた。
「どうして、お前は今の役割に就こうと思ったんだ?」
もう数歩歩きだしていた、ニーヤはぴくっと、立ち止まって、振り返らずに答えた。
「ラマヌジャンって知ってるか?」
ラマヌジャンといえば、有名なドイツの数学者だ。天才的な閃きの持ち主でインドの魔術師なだとと呼ばれたりもする。
「世の中には、本物の天才ってのがいるもんだ。ただ、試験の問題が解けるとかそういうんじゃねえ。思考が常人には一生かかっても手に入れられない生まれながらの才能の持ち主だ。俺みたいなやつからすると魔法使いみたいなもんだよ」
僕にも聞こえるくらいの大きさでニーヤはため息をついた。
「世の中には、どれだけ努力しても、凡人には絶対に到達できない次元があるっつーことだ。それはそれで詮方ない。持たざる者は持たない分だけ努力するだけだ。でも持たない者の中でもどうしても差はつく。たとえそれが運やちょっとしたミスだとしても」
ニーヤの顔はここからは見えない。
「ここに来る前はな、俺は、一番上の機関にいたんだよ。そこで俺はちょっとしたミスをした。いつもなら気づくような些細なもだった。俺は、数学者になりたかった。でも、その失敗のために、その資格を得ることは出来なかった。俺は周りの奴よりも自分が天才であることを証明できなかった。そのとき、俺は自分の生きる意味を失くしたんだ。それでも、俺は数学の研究がしたかった。いつかは来るのかどうか。自分のやりたいことを出来る時代が」
初めて、ニーヤが真面目に話しているのを聞いて、彼がすべて悟っていることに気がついた。
しゃべり終えたニーヤは、そのまま背を向けて電灯もついていない廊下を歩いて闇に紛れていった。
振り出した雨が止んだのは深夜になってからだった。
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