第5話
夕方には、もう雲が西の空を埋め尽くして、いつものような幻想的な色が僕の瞳に映ることはなかった。吹く風もどこか体にまとわりつくような感じで、服の隙間から入り込むと、肌に冷たい。
一応、明日のこともあるので体を冷やすとあまりよくないし、夕焼け空も見えないから、いつもよりかは少し早いけど、立ち上がって、非常階段を下った。地上に降り立ってから施設の外に向かう間、建物と建物の間の通路に人の姿はなく、風の音が耳にうるさいだけだった。この時間には、講義を終えて、機関の構成員はみんな、宿舎の方に帰っているはずだ。親の家から通っているというものも、非常に少数ではあるが、いるにはいる。でも、ほとんどが宿舎からここに通っているし、そもそも親がいないというようなものが機関の過半数だった。そして、僕たちと彼女たちの誰一人、親と呼べるものはいなかった。
滑らかに曲がったスロープを下って、宿舎の前にたどり着くと、薄暗い景色の中では十分に彩度の高い、橙色のような色が目に入って、僕は相手に気づかれないくらいのため息をついた。
「やあ、ガンダルフ君、帰ってくるの遅いっ。待ちくたびれて、もうそろそろ中に入ろうかと思ってたところさ」
「もっと遅く帰ってくればよかったか……」
つぶやくように言って、僕は彼女の横を通って宿舎の入り口をくぐった。トーイは、何でもないような感じで、僕の後ろを足音も立てずについて来る。
ここの宿舎の一階は食堂になっていて、明かりが煌々とついた中に入ると、一瞬、視界が白に覆われて、何も見えなくなった。何度か瞬きをしながら、そのまま歩いて、丼ものの場所まで行くと、厨房にいる人がこちらを見て、何も言わずに平鍋に火を入れて卵を落とした。漂ってくるたれのにおいに鼻孔を刺激されて、腹の虫が思わず鳴いた。振り返って、トーイの姿を探すと彼女は、定食ものの場所に立っているようだった。卵が半熟くらいになるまでの間、窓から見える、外を眺めていた。雲で覆われた外は一面、灰色に染まっていた。
差し出された丼を受け取って、コップに水を入れてから、食堂内に人はまばらだけど、わざわざ入り口から一番遠いところに座る。割り箸を割って、ご飯の上に乗った具をつかもうとしたところで、前の席に誰かが座る気配がした。
「ガンダルフ君、かつ丼なんか食べるんだ。意外に、肉食か」
何も言わずに、カツを箸で挟んで、口に入れてから、トーイのトレーの上の物を見てみると、白ご飯に、鮎の塩焼きと、みそ汁、ほうれん草の胡麻和えがのっていた。
「和食……、意外に健康志向か……」
腹が減っていたのか、トーイは少女に似合わぬ速さで、自分から来ているのに何もしゃべらずに、僕よりも早く、夕食を食べ終えてしまった。僕が最後のカツをほおばっているときには、食後の緑茶をトーイは喉に流し込んで一服していた。
「腹が減っては、戦は出来ぬというけど、腹が満たされたら今度は眠たくなって、これまた戦は出来ない。ちゃんと戦うためには食後の昼寝が必要だと私は思うな」
本当に頭が回っていないのか、彼女の眼は少しうつろになっていた。カツの油で、少し胃がもたれた僕は、冷たい水を胃に流し込んだ。
「で、結局、君は何の部活を創るつもりなの?」
トーイはすぐには答えずに、ぼんやりと灰色の外を眺めていた。
「なんのために、生きてるんだろうな」
何気ないことのように、彼女はぽつりと呟いた。僕も、外の景色を眺めながら、彼女を見ずに答える。
「多分、何のためにも生きていない。しいて言うなら、この先も続いていく人類の一つの部品と言ったところだろうね……」
外の雲はさっきよりも黒くなって、今にも雨粒が落ちてきそうだった。
「私はさ、わざわざ人類が生きながらえる必要なんかないと思ってるから、そうは思わないんだ。今日滅んでしまっても構わないし、昔に亡くなってしまっていても構わない。どうせ、いつかはなくなってしまうから。なんだか思うんだよ、私たちは終わってしまった夢の続きを見てるんじゃないかって。もうとっくに意味を失くして、それなのに、私たちは、人類を続けることをなんの不思議もなく当たり前だと思っている。なあ、ガンダルフ君、君はこの世界をどう思う?」
炎のように、揺らめく橙色とも、紅とも、朱色とも言える色の、髪の毛をもつ彼女たちの名前を思い出して、それから窓ガラスに映る自分と彼女の姿を僕は見つめた。
「僕は案外、今の世界を気に入ってるからね。今の時代は、これより前のどんな世代よりもましだと思ってる。かつては、才能あるものが、才能だけで上に立てる世の中じゃなかった。賢くない者が、賢くない者を謀って、賢い者を排除していた。上に立つ人間が自分のことだけを考え、世の中には真っ当な世界だけじゃなく裏の世界があり、これが当たり前のことだと、純粋なものが汚れたものに汚染される」
かつて一度見たことのある、大戦のあった土地は、目も当てられないほどに荒れ果てていたのを僕は脳裏で思い浮かべた。
「本当の世の中、人類というものは、能力以外のいかなるものによっても評価、判断がなされないものだよ。少なくとも、今の世界は本人の能力だけで、全てが決まる。そして、能力に応じて適材適所に人材が配置される。優れた人間が上に立ち、人類全体を管理して、それで世界は十分にうまく回ってるんだ。そもそも、君や僕が存在するのはそのためだろう?」
「それは私が求める理由じゃなくて、周りが、人類が求めた意味。まあ、私だって今の人類の全てを批判しようとは思わないさ。確かに昔よりはずっとましな面もある。私はホーマのような権力、権威主義を求めるような奴じゃあない。かといって、今の世界をそこまで肯定しているわけでもないんだ。確かに、今の世界は個人の力量だけで上まで上り詰めることができる。個人への正当な判断に基づいて、適した役割を社会から与えられる。そこに、全く持って無駄はない。さっき、君は言った、人は人類を存続させる一つの部品だって。的確な表現だと思うよ。私たちは人類のための部品として一人一人が管理されているという訳だ」
そこまで言って、トーイは一度口をつぐんだ。次に、口を開くとき、それまでの不敵な笑みはなく、どこか遠くを見るような顔つきになっていた。
「でも、私は、どこまでいっても私のことしか考えられない。人類なんかより自分のことがはるかに大事なんだ。自分のやりたいように生きたいのさ。何者にも束縛されず、何を犠牲にしても、私は私のためだけに生きる。例え、人類全体を犠牲にしたっておんなじことだ。私が、今の世界を気に入らないのは、私を私でいられなくするシステムだからなんだ。私は人類の一員だけど、人類に与するとは限らない。それは、誰にとっても言えることさ。ガンダルフ君、君にだって」
昔、似たようなことを屋上で語っていた少女の姿が思い浮かんだ。彼女は、それを自由だと言っていた。あるいは希望、もしくは夢、そして自分が自分でいられるための意味だと。その少女が、もしトーイの話を聞いたら何と答えることだろう。
「トーイはいったいどこに向かうのかな?」
「どこにも行きやしないさ。私は私だから。結局、部活を創ることだってその延長線上だ。とりあえず、部活は芸術部を創るよ。いろいろやりたいこともあるし、やってほしいこともある」
言い終わると、トレーを持ってトーイは立ち上がった。外はいつの間にか闇に覆われて、食堂内が窓ガラスによく映っていた。そのまま、歩き出すトーイに最後に一つだけ聞きたいことがあった。
「君は自分を人間だと思う?」
トーイは片手を上げて、ひらひらさせる。
「私以外は人間じゃないさ」
トーイが立ち去ってからも、僕は、座り続けていた。外からは、地面を叩く、雨音が届く。
人間失格、そんな言葉が頭に浮かんだ。
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