第3話

 目を開けて、歩き出した僕は、今度は施設に併設されている図書館の中にいた。

 棚と棚の間を歩きながら、彼の姿がないか目を配る。彼はいつも決まった場所にいない。ランダムに動いて、法則性はない。ブラウン運動のような人間だった。でも、ここの中にいることだけは確かで、ありがたい話だった。

 一階から順繰りに調べていって、彼がいたのは最上階の一番奥まったところだった。日差しも入らないそこに置いたパイプ椅子に彼は腰かけて、申し訳程度のお折り畳のテーブルに載せてあるノートパソコンを叩いていた。彼はパソコンの画面から目を離さずに口を開いた。

「お久しぶりだね、シカバネくん。前回会ったのは一年と三十七日前だね。要件はトーイくんのことかな。ブツはちゃんと持ってきてくれた?」

 早口に言いながら、それ以上に高速で彼はキーボードをたたき続けている。彼の声は少年にしては高い方で、少し声の低い少女のような声色だった。それに加えて色白で、前回見た時と変わらず髪は艶やかに腰まで伸びているから、遠くから見ると少女のようにも見えなくはない。彼に会うのはこれで六度目だった。

 無言で、左手に持っていた「ブツ」を差し出してから、近くの本棚に背中を預けた。

「彼女についての情報をありったけ頼む」

 そう聞くと、彼は背後に手を伸ばして、黒いパソコン用の鞄から、用紙を取り出して、差し出してきた。厚さは一センチくらいで、紐で閉じられていた。

 その場で、一ページ二秒くらいでページをめくりながら、ちらりと彼に目をやると、渡したブツを縦横斜め、いろいろな角度から眺めていた。

「ドストエフスキーの『罪と罰』か……。初めて渡してきたあれといい、君はもしかしてロシアの小説家がすきなのかな?」

 六年ほど前に、初めて彼に会ったときの情景が一瞬、脳裏に浮かんだ。あの頃は、僕の背は僕と同じクラスの人たちよりもずいぶん小さくて、目の前の彼は、髪が肩くらいに伸びていた。この時は、直接は来れない彼女の代わりに、お使いとして来ていて、渡したブツを今みたいに眺めた後に、僕の瞳の奥を覗いて、口を開いた。

「長い付き合いになりそうだね、よろしく、シカバネくん」

 その時、渡した本の題名に屍という文字が入っていた。

 なんとなく、彼が無言で僕の方を見ているのが視線を用紙に落としていても分かる。こちらが口を開くまでずっとそうしていそうなので、仕方なく口を開いた。

「それに関しては、ノーコメントで。ところで、読んだことはある?君には愚問かもしれないけど」

 彼は、すぐには答えずに、鞄にブツを閉まってから、こちらに向き直った。ざっと、百枚はありそうなレポートも、もう、残りの厚さは最初の半分よりも薄くなっていた。

「読んだことはないんだよねえ。内容自体は知ってるよ、もちろん。登場人物、ストーリー、よく引用される文とかは、どんな本に関しても、知ってるから」

 図書館の奥のここはほこりも舞わず、キーボードをたたく音と僕がページをめくる音だけが、空気を振動させている。もし、僕だったら、わざわざ内容を知っている本を読むのに時間を使うことはないだろうと思った。

「時間の無駄遣いじゃないのかい?」

 それまで続いていたキーボードの音が唐突に途絶えて、顔を上げてみると、彼が両手を軽く上げて、首をフルフルとしていた。

「ナンセンス、ナンセンスだねえ。知識と経験は別物だよ。どちらがどちらかより優れているなんてことは一概には言えないんだ。まあ、そりゃ、僕にも寿命はあるし、世の中の全部の本を読もうとなんて思ったりしないよ。実際、生きる分には役に立つのは、知識の方が多いだろうねえ。でも、実際に本を読んで自分が感じることはどんな言葉にも知識にも還元できない。感情というのは捉えようとすると目の前から消えてしまうようなものだから。一瞬しか、僕たちにはそれは分からない。自分にしかそれは分からない」

 そこで一度彼は言葉を区切って息を吸い直した。

「僕にとっては、そうしたものに、なんとなく憧れみたいなものを感じちゃうんだなあ。まあ、職業柄、いつも知識ばっかり取り扱ってるから、必要ないものを必要としているのか、はたまた、僕の中に少しばかり残っている人間らしさというものなのか。こうして僕が交換条件として本を持ってきてくれって言うのも、誰かがどんな理由にせよ選んでくれた本を読みたいという感情のなすことなのかもしれないね」

 最後に一言、彼は、少し人工的すぎるけどねと付け足して呟いた。しゃべりすぎたのか、二、三度深呼吸をすると、彼は再び、パソコンのスクリーンに目を向けながら、ひたすら両手を動かし始める。そんな彼を、少し眺めた後、僕もさっきの続きをし始めた。それからしばらくは、また、キーボードの音と紙をめくる音が図書館の片隅に響いた。

 最後のページをめくり終えると、用紙を彼に差し出して、背を伸ばした。彼は片手でそれを受け取ると、左手でキーボードを叩きながら、後ろも見ずに、鞄に仕舞う。

 彼の気をそがないように足音を立てずに歩き出すと、背後から静かに彼の声が飛んできた。

「そうそう、念のために言っておくけど、しばらく雲隠れしようと思うから、図書館に来てもいないからね」

 一応、ひらひらと手を振って、また歩き出す。

 どのみち今度会うのは半年後ぐらいになるだろう。

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