巨人岩伝説
私はその町に着くと、港近くの小さな酒場に入った。
木の扉を押すと、店内の熱気が伝わってくる。
グラスの合わさる音。
笑い声。
人々は一日の疲れを癒すため、安らぎを求めてここに来るのだ。
私は真っすぐに奥へ進むと、カウンターの前に腰かけた。
ずんぐりとした気の良さそうなマスターが、グラスを拭きながら言った。
「お客さん、何にしますか?」
「バーボン一杯」
ピアノの透明な旋律が、憂いを含んだ旋律を奏でている。
時々隅の方からどなり声が聞こえたりするが、喧嘩になるほどの事では無く、人々は思い思いに楽しんでいた。
私は壁に掛けられた一枚の絵を見ていた。
嵐を見つめる一人の青年の姿を描いた物だ。
どんよりとした灰色の空、今にも青年を飲み込もうと口を開ける波。
薄暗い光の中、それはまるで生命を得たかのように見える。
私は少々不気味に思いながら、マスターに尋ねた。
「おやじ、酒場に似つかわしく無い絵が飾ってあるな」
「ああ、あれは天才画家候補モーリス・ドーランが描いた『嵐を呼ぶ男』って絵ですよ」
「天才画家候補?」
「まあ、よくある売れない画家の卵って奴です」
マスターは私につまみのナッツを差し出しながら言う。
「ドーランに会ったことは?」
「ああ、店に何度か来たことがありますよ。色白の綺麗な顔の青年でしたね」
「あの絵はドーランから直接買ったのかい?」
「いいえ、ドーランはあの絵を最後に行方知れずになってしまったんですよ。競売に出されていたのが巡り巡ってうちに辿り着いたってわけで。私はあの訴えるような激しさが割と好きなんですよね。若くてこれからだと言うのに、一体どこへ行ったんだか……」
その後、マスターは「残念なことだ」と二度呟いた。
私はポケットから煙草を取り出すと、火をつけた。
「ところでおやじ、この町には巨人に纏わる伝説があるんだろう?」
「ああ、アンモナイト海の巨人岩伝説のことですか? 孤島に住んでいた巨人が初めて友達になった少女を嵐で失って、必死で探しているうちにとうとう岩になっちまったって話ですよ。巨人岩とか言っても、実際には沖に見える小さな岩の島ですけどね」
マスターは事も無げに答えた。
「それがどうかしたんですか?」
「いや、別にどうと言うわけじゃ無いんだが……なぜそんなにも少女を愛したと思うかい?」
「さあ、私にはわかりませんね」
「……たった一人の愛する人だったからさ。だから彼は自分の命を顧みずに海の中で少女を探し続けたんだ。孤島は寂しすぎるのさ」
ふいに拍手が沸き起こった。
誰かがマイクを取ったらしい。
甘いハスキーボイスが、切ない愛を囁き始める。
「そうそう、世の中には人騒がせな奴がいましてね。嵐の夜、あの巨人岩を見ると吸い寄せられて二度と帰って来れなくなると言って、みんなを怖がらせる輩がいるんですよ。巨人が人恋しさに呼び寄せるんだとね」
突然思い出したようにマスターが言った。
「本当に嘘だと思いますか?」
私は琥珀色の水面を見つめながら問い返した。
「おやじ、もう一度あの絵を見て下さいよ」
マスターは驚いたように私を見る。私は立って行くと『嵐を呼ぶ男』の絵の真ん中を指差した。絵の中の青年の見つめている方角だ。
「ここに、何か見えませんか?」
「……」
マスターは仕事の手を止めてやって来ると、目をすぼませながら顔を近づけた。
「いやー今まで気づかなかったが波間に小さな岩があるねえ。お客さん、よくこんな小さいのがよく見えましたね。こんなところに岩が……お客さん! もしかして……」
急にマスターは大声を上げた。
「もしや、これが巨人岩だと言うんですか!」
「ドーランは私の親友でした」
「じゃ、ドーランの行方不明と言うのは……」
マスターは再び『嵐を呼ぶ男』を見ると、真っ青になってガタガタ震え出した。
私はカウンターに代金を置いてその店を出た。
目の前を冷たい海の風が吹き抜ける。
思わずコートの襟に伸ばした手を止めて、己が白い指先を見つめた。
口元に自嘲的な笑みを浮かべたまま、私はそのまま海へ向かって進み出た。
もうお前を一人にはしない……
☆
それから一週間ほどして、開店準備をしていた酒場の店主の元に、二人の刑事がやって来た。年上の刑事に見せられた写真は、あのモーリスの友人と言った男だった。
刑事の話によると、浜で死亡していたとのこと。
もしや、あの男性も嵐の巨人岩を見て吸い寄せられたのではと、震えあがった店主の耳に、刑事は別の話をして帰っていった。
その男性はモーリス・ドーラン殺害の容疑で指名手配されていたこと。
その男の背後には、怪しげな画商の影があり、曰くつきの絵画を集めては闇取引していること。
恐らく仲間割れで殺害されたのだろうが、今後画商が訪ねてくるようなことがあれば、直ぐに連絡してくれと言われたのだった。
画商なら、次の夜に来た……店主はそう言いそうになって、言葉を飲み込んだ。
これ以上関り合いにはなりたくなかったからだ。
巨人岩伝説の話を聞いた夜、店主はモーリスの絵を壁から取り外した。
処分に困り途方に暮れていたところへ、自らを画商と名乗る初老の男性が店に訪れたので、これ幸いと二束三文で引き渡したのだった。
巨人岩の伝説は、本当なのか。
それとも単なる作り話なのか。
店主はどちらにしても、恐ろしいと思った。
人を惑わし、恐怖に陥れるのは変わらないのだから……
完
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