第10話 不信感と、抱えた想い

ここ数日間、玲奈さんのスマホは絶え間なく震えていたが、彼女はほとんどを無視して毎日漫画を読みふけっていた。俺たちが学校の間も、ずっと静かに部屋の隅で過ごしていた。左頬のあざは色が薄くなり、もうよく見ないとわからないほどだ。

俺は最初の頃こそ、玲奈さんが同じ空間にいるだけで冷や汗をかいていたが、だんだんと落ち着いてくるのを感じた。玲奈さんが女性であるという認識は無くならない。だが接触はもちろんないし、移動するときは動く前に言ってくれたりと気を遣ってくれているのがよくわかった。

「あの、玲奈さん」

「ん、なに?一くん」

比嘉は学校が疲れたのか、イヤホンで音楽を聴きながら仮眠をとっている。今のうちに玲奈さんから比嘉のことを聞き出そうと思った。

「比嘉……あ。えっと……零の、昔の話とか、本人から聞いたことないので、よければ聞きたい、です」

「ん、いいよぉ~。何話そっかなぁ。小学生の頃は文字通りのクソガキだったし、面白いことありすぎて忘れた。中学になってからの話とかならあるかな~」

玲奈さんはローテーブルに頬杖をついて、上を向き考える素振りをした。

「過去に、恋人とかいたんですか?そこが一番気になってるんですけど」

「おっ、直球だね。やっぱりそこかぁ……」

予想していたことだったのか、すんなりと玲奈さんは話し始めた。

「中一で、女子に一回告白されて付き合ったんだよね。零は相手の女子に魅力を感じられなくて、でもそのまま付き合ってたら泣かれちゃったんだって。彼女にみんなの前で泣かれたからクラスに居場所なくなっちゃったって聞いたな」

「俺も似たような経験があったのでわかります」

「そうなんだ!後で詳しく聞きたいな~。でね、よく考えてってか、悩んでたら零は自分がゲイなんじゃないかって気づいたんだよね」

玲奈さんがこんなに詳細に話せるということは比嘉は玲奈さんを本当に信頼していて、日頃相談をしていたんだなとふと思った。玲奈さんは続ける。

「中一の終わり頃かな、社会人の彼氏ができてたのね。まぁ3ヶ月くらいで別れちゃうんだけど」

「社会人の、彼氏がいたんですか」

「そ、ちょっとびっくりするよね。会ったことあるけど一見ちゃんとした大人だった。優しいけどかなりさっぱりしてる人だったみたいで、付き合ううちにあの子が病んでいってね。重いからって振られた~って泣いてた」

社会人の彼氏がいたことがあるというのは、驚きと嫉妬で一瞬気が狂いそうになった。比嘉が当時の彼をとても好いていた事実を知って、無性に悔しくなり強く唇を噛み締める。

「んで、振られた悲しみとか、彼のことを忘れるためにね、援交をしだしたの。やめなよって何回か言ったけどね」

「本当に、なんでも玲奈さんに話してるんですね」

「あはは、信頼されすぎててちょっとヤバって思う時もあるけどね~」

実の姉に援助交際のことを話しているなんてあまり考えられないが、それだけ心を許し合っているからできることだろう。……俺は本当に人に心を許したことがあるのだろうか。比嘉に許せているか?全てさらけ出せているか?まだできない。心のずっとずっと奥の気持ちや、忌々しい過去を人に晒すことが怖くてしょうがない。

「相手の愚痴とかも聞かされたよ~。メッセージとか見せられながらさ。いろんな人がいたなぁ……あ、ねぇてかさ」

「はい」

「一くんのことも聞きたいよ、どうして零を好きになってくれたの?」

嫌な汗が背中を流れ出し、呼吸が速くなる。これは鬱々と考えを巡らし出したのも一因だが、今俺に問いかけた玲奈さんがじっと見透かしたような、真剣な鋭い目で見つめてくる。好きになった理由、きっかけ。俺は適当な答えを探し思考を巡らせた。さっきまでの玲奈さんとは確実に違う、俺に不信感を持っているような雰囲気が怖くなり、俺の具合は一気に降下した。速くなった鼓動の音が脳に響き渡り、視界がねじれる。

「すみません、ちょっと、お手洗いに行きます……」

「あら、いってらっしゃい!」

狭い個室に逃げ込んで一呼吸。限界が来た俺は胃の中のほとんどを吐き出した。比嘉が作ってくれたご飯だった、でももう何かわからなくなったものが溜まった便器を抱えながら考える。最後に一瞬見た玲奈さんはいつもと変わらなかった。きっと無意識に、かわいい弟を心配しているから、俺に鋭い目を向けるのだろう。全て白状してしまえたらどれだけ楽か。苦しい。比嘉とずっと一緒に居たいという想いが強くなるほど、隠しごとはどんどん胸の奥にねじ込まれていく。水を流し、吐いたものと水が混ざり吸い込まれていくのを見送る。落ち着こうと深く息を吐きながら、俺はドアに寄り掛かり天井を仰いだ。照明の明るさに目を細めて、そのまま眠りに落ちていった。



「一ぇ?開けるよ~……うわっ!」

鈍い音とともに頭と背中に痛みが走る。便所の個室のドアが開かれ、上半身を廊下に投げ出されたからだ。比嘉が心配そうに俺を見下ろしている。

「も~、大丈夫?姉ちゃんが心配してるよ」

「ん……大丈夫。今、何時だ」

「もう8時半!寝ちゃってたよ俺も。お風呂洗っておいて、ご飯作るからさ」

二つ返事をして、ゆっくり起き上がる。比嘉は、俺が起き上がるのを見守って、それから台所に向かった。俺は掃除するために浴室に行き、浴槽の蓋をあける。シャワーを出して浴槽に流すと、水音が激しく浴室に響く。白い浴槽の壁を跳ねる水滴を見つめながら、ふと考える。

玲奈さんは、俺が言えずに隠していることを、中学の頃に比嘉から聞いていたに違いない。比嘉は思いのほか忘れっぽいから、きっと忘れているんだろうけれど。比嘉を心底大切に思っている玲奈さんには、俺の隠し事を正直に話しておく必要があるかもしれない。これは俺のためだ。

俺は、比嘉のこと以外はどうでもいいと思っている。比嘉と関係を続けていけたら、それでいい。玲奈さんを受け入れたのだって比嘉のことを聞くためだ。だがそれがお見通しで、俺をあまり良く思っていないとなると、やりづらい。それにこのままでは玲奈さんはことあるごとに干渉してくる可能性がある。やっとの思いで築き上げた二人の世界に水を差されるのは絶対に嫌だ。だから俺は……。

「一?どしたの、ずっとシャワー出したまま固まって。水道代高くなるよ」

比嘉が顔を覗かせてきた。

「……考え事をしてた」

「ふうん。あ、今日ごはんカレーライスでもいい?姉ちゃんが手伝ってくれるって」

無言で頷くと、比嘉は俺に微笑んでから台所に戻った。いつもの笑顔、それがなぜか今は、不安定な心に染みて痛かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る