第9話 秘密の朝
玲奈さんがやってきた翌日、目が覚めたのは5時だった。俺は背中にじっとりと汗をかいていた。息を整えながらあたりを見回す。比嘉も玲奈さんもまだ眠っている。比嘉を起こさないよう静かにベッドから抜け出し、台所でコップに水を汲む。一気に飲み干し、俺は流しに項垂れた。女性と接点があった日は、嫌な夢を見て体調が悪い。今までも、女性に迫られる夢を数え切れないくらい見てきた。しかし今日の夢は少し違った。最後になぜか比嘉が出てきて助けてくれた。迫る女性を追い払い、もう怖くないよと背中をさすってくれる比嘉。ベタな展開で気恥ずかしい。しかし、彼が心の支えになっているんだなと実感した。
「掃除でもするか」
俺は中学の頃から、やや強迫的に毎日掃除をしている。ストレスの多い日々で、部屋をきれいに保つことは人の形でいるための唯一の方法だった。毎朝、隅々まで掃除をし、ゴミをまとめ、水回りを磨く。しかしそれもやりすぎることは良いとは言えない。わかっている。俺は神経質だ。
「毎日の掃除やりすぎじゃない?手カサカサになるよ」と比嘉に言われたが掃除はやめられず、ハンドクリームを買った。やめないならしょうがないと、比嘉に選んでもらったものだ。
ひと通り掃除を終え、ハンドクリームを手に塗りたくっていると、もぞもぞと布の擦れる音がした。
「んぅ……一?おふぁよ、早くない?」
比嘉が目を覚まして、布団から這い出てきた。
「ん、おはよう。ちょっと早く目が覚めたから」
比嘉は眠そうに目を細める。手を取って、余ったハンドクリームを優しく揉み込んだ。
「ん……ぉ、ねむぅ。姉ちゃんはまだ寝てるか」
「二人ともよく寝てた」
そのまま手を握ったりさすったりと遊んでいると、比嘉は俺の左手を顔に近づけて、深呼吸をして香りを嗅いだ。
「……ふふ、これいい香りだねえ」
蕩けた笑顔で俺の手に頬擦りをする。早朝の薄寒い台所で、お互いの体温を感じ合う。俺は右手で、比嘉の濃いピンクに染まった癖っ毛を撫で、横の髪を左耳にかけた。上を向いてとんがった軟骨ピアスが二つ、耳たぶのピアスは一つ、小窓からの太陽光を反射して光っている。俺を見上げる大きな瞳、なあに?と笑う口には八重歯が覗く。愛おしい。たまらなくなって優しく比嘉を抱きしめると、比嘉もそれに応える。小さな手で背中を優しくさすられた。
しばらく抱き合っていると、玲奈さんが向こうで小さくうめくいた。比嘉の体がゆっくりと離れる。
「姉ちゃん起きそうだね、朝飯作りはじめるわ」
「うん、頼んだ。俺はゴミ捨ててくる」
「いってら~」
「あ、おはよう。一くん」
ゴミを捨てて少しランニングをしてから帰ってくると、玲奈さんが起きていた。ローテーブルに肘をついて、スマホをいじりながらも、玲奈さんは俺と目を合わせて挨拶をする。
「おはようございます、よく眠れましたか」
俺は目を逸らして、自分でもわかるほどぎこちない話し方で問いかけた。
「うん、おかげさまで!」
玲奈さんはくしゃっと笑って、スマホに視線を戻す。俺は玲奈さんと正面に向かわない位置に座り、息を整えた。何かしら比嘉について話を振りたいところだが、やはり女性の前では軽くパニックになってしまう。手が震えてきたが、悟られないように平静を装う。玲奈さんは絶対に危害を加えてこない、大丈夫。そう言い聞かせるたびに怖くなってくるのはいつものことなのに、同じことをしてしまう。
「零、料理上手くなったね」
玲奈さんから話を振ってくれた。強張っていた肩の力を意識して抜く。
「……比嘉は、付き合い始めたときもすでに上手でした」
玲奈さんと目を合わせず、比嘉の後ろ姿を眺めながら俺は精一杯言葉を絞る。
「あれれ?そうかな。でも、手際が前と全然違う」
「味じゃなくて手際……。確かに、家に来た当初はもう少しもたもたしてたか」
俺が少し早口でそう言い切ると、玲奈さんは一瞬驚いた顔をして、すぐに目を細めた。
「ふふ、ちゃんと見てるんだね~。零のこと」
俺と比嘉を交互に眺めて、にやにやしながら頬杖をつく。
「それは……好きなんで」
「ひゅ~、なんだか根掘り葉掘り聞きたくなっちゃうなぁ!」
「姉ちゃん!一のこと困らせないでよ」
比嘉が台所から叫んだ。
「比嘉、手伝うよ」
台所は味噌汁の香りが充満している。
「ありがと、これ運んで」
比嘉が手渡した大皿には、3人分のおかずが盛り付けられている。大皿に全員分のおかずを乗せるのは比嘉家のやり方らしくて、2人分だとそこまでだが、それ以上の量だと視覚で食欲を刺激される気がした。みずみずしいサラダの横につやつやのウインナー、その上にくたっと目玉焼きが覆い被さって、半熟の黄身がきらきらと光る。
「わー美味しそう!」
玲奈さんは既に、箸を握って食べる気満々だ。比嘉はやれやれと息をついた。
「先食べといて!ちょっと洗い物しちゃうから」
「わかった」
俺と玲奈さんは席に直る。
「いただきます!」
「いただきます」
台所から、めしあがれ~、と比嘉の声。俺は冷めないうちにと、味噌汁をすすった。
「ねえ、一くん。聞きたいんだけどさ」
玲奈さんが小さな声で尋ねてきた。
「零のこと、苗字で呼ぶのはなんで?」
……いきなり痛いところを突かれた。これには深い理由があるが、本人にだって教えたくないことだ。
「俺の嫌いな人が、名前で呼んでたんで」
嘘はついていない。
「ふぅん。それって誰?」
視界の端から見える玲奈さんは、どことなく真剣な目をしている。
「……」
これ以上は言えないと思い、口をつぐんでいると、玲奈さんの真剣な目線は離れた。
「ま、言えないこともあるよねえ」
玲奈さんはウインナーを口に放り込む。パリパリと皮が破ける音。比嘉が洗い物をする水音。俺は小さく、味噌汁をすする。
「零は、自分の名前好きみたいだからさ」
玲奈さんは、口を覆って、こもった声を出した。
「いつか呼べると思ったら呼んであげてね」
「……わかりました」
確約できないと思いつつも、そう答えるしかなかった。
女性の勘というのは、女性そのものよりも怖いものかもしれない。俺が他にも隠し事をしていること、玲奈さんは感じ取っている。俺は確信していた。
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