知るには代償を
第8話 かき乱れる愛の巣
比嘉の失血事件から2ヶ月が経った。あれから俺と比嘉は思った以上にうまく関係を続けている。たまに文句の言い合いや軽い喧嘩をすることもあるが、比較的穏やかに2人で生活をしていた。
「一ぇ!ちょっと手伝って!」
「ん、何」
「火ぃ見といて!トイレ行く」
比嘉はお玉を手渡してトイレに駆け込んだ。俺の使い方もだいぶ荒くなっているが、それはそれで、気を許してくれているみたいで嬉しく思う。俺は比嘉に任された鍋をぼんやり考え事をしながらかき混ぜていた。
カツカツと、アパートの廊下からヒールの歩く音が聞こえる。もう遅い時間だ、隣の住人が帰ってきたのだろうか。俺は身震いをする。中学の頃の思い出したくない出来事から、女性に関する匂いや音が苦手になった。街中を歩くことは比嘉のおかげで苦ではなくなったし、これでも良くなった方ではあるが、まだ傷が完全に癒えることはない。
ヒールの音が俺の部屋の前で止まり、秋の虫の音だけが鮮明に聞こえるようになった。そこからしばらくヒールは動かない。全身がよだって、冷や汗が流れ出てきた。まさか、まだあのひとが俺を探しているのではないか、今目前に来ているのではないか、よくない思考が駆け巡っている時に比嘉がトイレから出てきた。
「ありがと~って、すごい汗かいてんね、あつい?」
「いや……」
言いかけたところで、部屋のチャイムが音を立てた。
「こんな時間に誰ぇ?一、出れる?」
「う……」
俺の様子がおかしいことに比嘉は気づいた。鍋の火を止めて、チェーンをかけてから、俺に目配せをしてそーっとドアを開く。
「零ぃい!」
真っ青な髪の女性がドアの隙間から顔を出す。
「うわっびっくりしたぁ!姉ちゃん!?」
比嘉は姉の突然の訪問に困惑しながらも、ちょっと待って、とチェーンを外してドアを開けた。すると女性は比嘉に抱きついた。青くみえたその髪は、少し緑を含んでいる。
「わあああん零!久しぶりぃ~!」
「待って姉ちゃん、苦しいし、なんでここがわかったの!?」
比嘉が引き剥がすと、女性の顔がしっかり見えた。黄色っぽい瞳で、顔の作りは比嘉とよく似ている。
「あっ、ごめんごめん!まず彼氏さんに挨拶しないとだ!」
女性はこっちに向き直る。何かあったのか、左の頬に大きくあざがあって痛々しい。俺はまっすぐ女性を見るのが久しぶりで、硬直した。
「ちょっと待って姉ちゃんっ」
女性の腕を引っ張り静止すると、比嘉は俺の女性恐怖のことを伝えた。
「えっそうなの!?ごめんなさい、いきなり来ちゃって……」
女性は申し訳なさそうな顔をして、縮こまった。その様子が、なぜか少し可愛らしく思えてしまった。
「いえ……大丈夫です。比嘉、紹介してくれよ」
台所で3人、微妙な距離で突っ立ったまま、少し気まずい空気が流れた。奥に通して座ってやるべきかもしれないとふと思ったが、それ以上頭が回らず、そのまま話が進む。
「えっと……オレの姉、比嘉玲奈。20~……いくつだっけ」
「なんで忘れてんの!比嘉玲奈です、年は23!」
玲奈さんは眩しすぎるほどの満面の笑みで自己紹介をした。その笑顔は純粋な子供のようで、思惑があるようには見えなかった。俺の緊張が少し緩む。
「はじめまして……、関戸一です。弟さんにはお世話になってます」
「いいえ~こちらこそ、弟がお世話になってます!」
軽くお辞儀をして、玲奈さんは未だニコニコとしていた。
「姉ちゃん、なんか用があってここにきたんでしょ?」
「そのことなんだけど……」
玲奈さんの顔が一瞬で悲しそうに曇る。本当に表情が豊かで、裏表のなさそうな人だ。
「ええっ、泊めてほしい!?」
比嘉の声が部屋に反響した。玲奈さんは、同棲していた彼に日常的に暴力を振われていたらしく、やっとのことで逃げてきたようだ。
「傷が軽くなるまででいいの、当てはあるから……」
比嘉が急いで作った夕飯を並べ、ローテーブルを囲んで話し合う。俺はしばらく黙って姉弟の話し合いを聞いていた。
「てか実家帰ればよかったんじゃあ」
「久々に帰ってきた娘がこんな傷ついてて、父さん母さん黙ってると思う?面倒臭いし心配かけたくないの」
比嘉は唸って考え込む。DVのことを、親にも次に一緒に暮らす人間にも言いたくないのに俺たちを頼ってきたのは、彼女が弟のことを信用しているからだろう。その後も2人は話し合うが平行線だった。俺は思わず口を開く。
「いいですよ」
「えっ?は、一?」
2人が目をまん丸にしてこちらを見つめる。
「傷が治るまで、泊まっていってください。布団は場所もないし用意できないのでクッションとタオルケットしかないですが」
「ちょ、ちょっとまって!大丈夫なの?」
心配そうに上目遣いで見つめ、比嘉は俺の袖を掴む。
「一、まだ顔色悪いよ。女の人と同じ空間で何日も生活できるの?」
「……自分のお姉さんを見捨てるのか?」
自分で思ったより低い声が出てしまった。比嘉はびっくりして固まっている。
「んん、すみません。俺は接触がなるべく無ければ大丈夫です。駄目なことがあれば都度お願いするので、あまり気にしないで」
比嘉の頭をそっと撫でながら玲奈さんに向く。彼女の顔がみるみる明るくなる。
「ありがとう、一くん!しばらくお世話になります!」
玲奈さんはくしゃっと笑う。ほっとしたのか、冷めてしまったであろう夕飯を食べはじめた。
「比嘉、ごめん。怖い声出して。怖かった?」
比嘉は俯いて俺の腰に抱きついて離れない。
「……びっくりした」
俺は腰から離れない比嘉の頭を撫で続け、玲奈さんは夕飯をもりもり食べた。俺の分もあげた。
しばらくは騒がしくなりそうだが、比嘉のことをもっと知る機会になると思った。
俺が知らない比嘉の一面を教えてくれるかもしれない存在が目の前にいるのだ。
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