第18話「Franz Qahwah 4」

 客足が収まって、再び俺達だけになった時、部長はマスターを呼び出した。


 そつのない運びで、逆に言えばそつがなさすぎて、安心や安定感、泰然たる態度さえも超越し、我が国を闊歩する暴君の如く見える足取りで、その人は俺達に近づき、


「アレかい?」


 不明瞭な代名詞とともに睨んだ。いや違う。これは多分……笑っているのだ。どうしても「アレ」が法に引っかかりそうな「アレ」にしか聞こえないが、これは部長の意図を汲んで、そういうことだろう? とほくそ笑んでいる顔なのだ。多分きっと恐らく。コーキィコーキィ?


「お願いできますか?」


 礼を損なわない声音で言う。


「わかったよ。今なら客も少ないしね」


 しようがないね、といった風に肩をしゃくり、そして徐に奥へ戻っていった。

 ……何をおっぱじめる気だ。何を。


 しばらく待っていると、梨を長くしたような妙な形の箱を提げて戻ってきた。そして箱――ではなく、ケースから取り出したるは……まさかのヴァイオリン。

 ……え。それ、バット代わりに使うの? 誰に使うの? なんとか組の人に? ゾクのライバルグループのリーダーに? と戦慄していたら、ペグを回して調弦を始める。

 それが終わると、出入口から見て右端にある空きスペースに移動した。

 こちらを向いて静かに一礼。肩にヴァイオリンを置き、顎で挟みこむようにして支え、最後に粛々とした所作で弓を構えた後、一呼吸置いて旋律が聴こえ始めた。



 


 長閑やかな春の日の昼下がり、小さな隣人の声が聞こえ、私は窓を開けた。

 外に出て声の主を探すと、かわいらしい隣人は木の上で一人歌っていた。

 少し近づいて、「友人はいないのかい?」と訊くと、こちらを向いてあいさつしてくれる。

 それに温かい気持ちで応じると、隣人は翼をひろげて飛び立っていった。

 太陽に向かうその姿を、私はやわらかい心で見つめていた。



 ある日のこと、長らく聞いていなかった声に惹かれ、外に出た。

 木の上を見ると、隣人の傍らには私の知らない人がいた。

 彼らは歌うようにお喋りをしていて、私が「友人を紹介してくれるかい?」と近づいて訊くと、彼らは「私のこともそうだ」、と言うように周りを飛び回りながら歌い出した。

 私はすっかり楽しくなってしまって、踊りだしそうな気持ちで一緒に歌った。

 そうしていると、私の友人がやってきてこれに加わり、私は、さらに胸を高鳴らせた。



 幾らか経って、隣人とその友人が、生涯を共にする間柄になった。

 私と、私の友人は、それを祝うためにお茶会を開いた。

 樹のそばで行われたお茶会は、彼らと私達の歌声で彩られ、ダンスによって心躍る時間となった。

 彼らは木の上に家を作り、本当の隣人となった私達は、毎日賑やかに歌って過ごした。





 ……。

 …………。

 ………………。


 手を叩く音が聞こえてくる。


「ありがとうございました」


 部長の声。それを聞いても俺は目を開けることなく、余韻に浸っていた。





 隣人は怪鳥となり、魔の調べで私の心に呪いをかけた。


 心は脳を蝕み、脳は心を蝕む。そして徐々に体を侵食していく。


 怪鳥は私の元を去り、小鳥の姿になってどこかで暮らす。


 呪いが消えることはない。一瞬、忘れることはできても、泡のように必ず浮かび上がる。


 呪いは私が息絶えるまで続く。


 私が子を成せばその子にも呪いが及ぶかもしれない。伴侶にもその可能性はある。


 だから私は独りで死なねばならない。誰に頼ることもなく、独りで。



 全ては怪鳥の所為。そう思いたくもなるが、そうではない。

 どちらにも原因があったかもしれない。もうそれはわからないような気もするが……、私だ。

 私なのだ。全てが私の所為ではなかったかもしれないが、私が――彼らを怪鳥にした。

 現に彼らは私の元を去るとき、小鳥の姿に戻って飛び去っていった。彼らは元は小鳥だったのだ。


 もうわかっただろう、私の正体が。

 私が何なのかが。


 幾ら鏡を見ても気づかなかった私の姿が、今なら目を瞑ってでもはっきりとわかる。


 ……さあ、とくとご照覧あれ。


 我が身に宿る想念を。


 我が身に宿る災厄を。


 人が神に見放されたその契機が、今ここに在る。


 そう、私の名は。



 ――――――■■だ。





 途中から厨二病を発症した。恥ずかし過ぎて死にたい。

 そうだ。ここから上の数十行を謎の白紙にしよう。それか、誰かにビリビリに破くかスクラッチしてもらう。そう、例えばウルヴァリンとかに。

 ……ローガンを作った会社に対しての何やかやをここでぶち撒けてもいいのよウルヴィ。



「悪いね、下手な演奏で」


 無愛想に言う。


「どうだった? 志津馬君」


 そう訊かれて、思い出したように目を開き、少しまごついてしまった。


「えっと……いや、感動しました。どう言ったらいいかはわかりませんけど」

 どうしてそんなことしか言えないのか。心の底からそう思う。


「そうかい。ちっとは出し物として見れた、じゃないね、聴けたものだったみたいだね。それじゃ、アタシは奥にいるから、何かあれば呼びなよ」


 ヴァイオリンをケースに戻してから、マスターは奥に戻っていった。それを見ていると、にわかに部長がこちらを向く。


「志津馬君。辞めてもかまわない」


 いきなりで混乱した。



「えっと……何をです?」


「部をだ。確かに入部したが、今日は体験入部として考えてくれてかまわない」


「……は、はあ」

 少し考えると、答えに行き着いた。要するに、そういう選択肢があったにもかかわらず、入部した俺を気遣ってくれているのだろう。いろいろあって気づかなかったが、その選択肢もあったのだと。

 ふむ。それならお言葉に甘えて、猶予期間ということにしておいてもらおうか。


「まあ、考えておいてくれ」


 そう言って、少し冷めたコーヒーに口をつける。


 返事をしてから、それに倣った。





         ◆





 会計の時は大変だった。

 店長は「サービスだ」と言って聞かないし、部長は部長で「払います」の一点張り。終いには払うの活用形まで言い始める始末で、「払われるのがいやなら土下座してください」なんて言い出し、マスターが「よし」と本当に膝を突き始めた時は焦った。

 結局、店長に「二人分は悪いですから俺にも払わせてください」と頼んで聞き分けてもらった。ちょうど二人の代金が同じだったので、割り勘ということにすればいいと思ったのだ。

 「そんなに払いたいなら払えばいい。体でも何でも使って」などと、部長の方まで聞き分けがよかったのは不思議だったが、気まぐれなのか、それとも何か下心があるのかはわからなかった。

 当初は部長の奢りだったので、もったいない事をしたと言えば違いない。だが、マスターを土下座させてしまった時の、如何ともし難い気まずさを味わうよりはましだと思った。



 勘定の後、部長が出ていき、俺も続こうとしたところ、


「おい、兄ちゃん、名前は?」


 レジカウンターから声がかかった。


 兄ちゃん? 兄ちゃんって誰? 俺そんなデカイ妹、持った覚えないけど。俺が妹と認めるのは、「お兄ちゃん大好きっ!」って飛び込んでくる天真爛漫なロリっ娘か、「にいちゃん、今日暇だったら遊びにいかない?」と控えめだったり、軽かったり、強気だったりと色々な性格で誘ってくるアクティブシスター達か、「兄貴、また私のプリン食べたでしょー!? もう! 許してあげるから今度おごってよね!」などと「だろ・やる」口調でもよい、テンプレなツンデレを見せつつ、さりげにスキンシップを取ろうとする歯磨き合いっこなんかがしたくなるアスリート系シスターか、王道の引っ込み思案な、ウィスパー・ボイスで誘惑してきそうな庇護欲マックスシスターだけだけど。


「志津馬です」


「人の名前を訊く時は、まず自分から名乗るべきじゃありませんか?」

 そう言うやいなや、マスターは鈍く光る得物を手に襲いかかってきた。


「いい度胸じゃないかい兄ちゃん。ちょっとその胸の中、見せてもらおうか!」


 とかそんなことになりそうで怖い。ドスの利いた声で叫びながらドスをドスッ! みたいな。舞妓さんがやるとちょっとシュールかもしれない。


「今からあんさんの胸にこのドスをドスってするんどすえ。ほな」(京都弁のイントネーションで読んでね)

 ドスッ!

「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」


 てな感じ。……シュールどころか逆に怖いどすえ。


「シヅマ、これみいちゃんに渡しといてくれ。すぐには渡すなよ、あとでだ」


 裏釘を返しながら札と硬貨を手渡してくる。それを見てすぐに事情を察した。


「これ、部長のお代ですか?」

 部長のおふざけに対するお代なら、高すぎて突き返す額だ。「私を手篭めにする気か! 脅しでも笑えんよ! (池田さんボイス)」って。恐ろしくてとてもそんなことできないけど。


「こうでもしないと奢らせてくれそうにないからね。頼んだよ」


 すんなりした手足を何気なく動かして、例のモデルポーズでお願いしてくる。


 頼んでいるつもりだろうが、言われている俺は完全に下っ端の気分だ。それに俺に頼まれても困る。マスターでもできないことを、出会って一日の俺にできるはずがない。その気にさせたいなら、「お前を信じる私を信じろ!」とか気の利いたこと言ってほしい。そしたらアネキの代わりに爆発してやるから。アニキの死因ってそれであってたかしらん。


「わかりました。やってみます」

 でも断れない。怖いから。だって、入店してから一度も目を合わせられていないくらいこわいんだもん。今だって、必死に顔の横の、レンガの縁が欠けてるところ凝視してるくらいだし。餌付けされたせいで最早恐懼の域ですこれ。


「いいかい、渡すのは別れる直前にするんだよ?」


 サイコキネシスが発動しそうな表情で念を押される。


「わかりました」

 頷き返してから、もう一度「ごちそうさまでした」と挨拶し、ドアに向かった。



「また来な」


 という声を背に受け、店から出ると、部長は一人で夕日を仰いでいた。例に違わず、腕を組んで仁王立ちで。


 ふいに。


「よし、走るか……」


「やめなさい」


 やさしく諭した。


 すると向き直り、


「君の財布に入っている余剰金だが、私に渡す必要はないぞ」


 またぞろ急に話題を振ってくる。でも今回のそれは見当がつくものだった。


(なぜそれを。もうバレたのか……)


「今日は私の奢りだからな。それを君が渡さなければ、私は君に奢る事ができる」


 ……まさか。マスターが必ず勝つと言っていたのをそこまで見越して? 俺のお代と額が同じだったのはそのため? 部長とマスターの言い合いに俺が割って入るのを予想してた上、店長が俺を使うこともわかっていたと? あの時、妙に素直だったのは……。

 それが本当なら、部長を見る目を改めるべき、なのだろうか。


「なにもんだあんた」

 頭が多少回る、か。そうでなければ、そこまですることはできないだろう。少なくとも“俺”には無理だ。よく知らない人と喫茶店に入り、そんなことにまで思考を割く余裕はない、と思う。


「その問いにはベタなセリフを返そう」


 至極真面目に、しかしどこか萎えた様子で答えた。


 またわけのわからないことを……。そう思いながら、諦めることにした。仕方ない。マスターにはああ言われていたけど、やっぱり無理だ。このお金はまた今度来た時にマスターに返s…………こわいお。


「でも部長」


「ん?」


 これだけは言っておかないといけない。部長の今後のためにも。


「盗み聞きは良くないです」

 きっぱりとそう言うと、


「ごめんなさい」


 深々と頭を下げた。


 太陽に向かって。

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