第41話 仮面

 ミクルがレイの家に転がり込んできた翌日。見事な寝癖をつけたミクルに玄関から見送られ、レイは彼女の自宅へと向かった。

 彼女の家は、かなり老朽化した平屋の住宅だった。何個か扉がついており、ミクルのほかにも、複数の居住者がいるようだった。

 ミクルが住む一〇三号室の部屋の前に、昼間の路上に似つかわしくない風貌をした若い男がうろうろしていた。ウェーブした金の長髪。耳につけたどデカいピアス。彼がゲレイロの部下であることは容易に判別できた。

 レイは特に身を隠すこともせず、部屋の前へと近づいていった。当然、ピアスの男はレイの姿を視界に捉えると、彼の進路を塞ぐように立ちはだかった。

「お前のボスに依頼を受けている」

 レイは、努めて声のトーンを落として言った。それを聞いて、レイを睨みつけていた若い男は潔く道を譲った。レイは難なく一〇三号室に入りこんだ。

 彼は、ミクルから託されたメモと部屋の中を交互に睨みながら、衣類、化粧品、その他もろもろ彼女の持ち物を、部屋にあった大きな袋に詰め込んだ。袋は小さな子どもくらいの大きさに膨れ上がった。

 袋を抱えたまま扉の間をなんとか通り抜けて、レイは外に出た。ピアスの男は、馬鹿でかい袋を抱えて出てきたレイを見て目を丸くしていた。

「お前のボスに頼まれているんだ」

 そう言い残して去っていくレイの後ろ姿を、ピアスの男はどういう気持ちで見送ったのだろうか。レイは、ピアスの彼がゲレイロに報告しないよう祈った。




 依頼を受けてから三日が経った。レイは、食料の買い出しのため、市場にきていた。カゴ一杯に、パンや調理済みの肉などを詰め込む。露店の店主が、代金を算出する間、レイは考えにふけっていた。彼は、二つの依頼に対する解決策を未だ見出せずにいた。ミクルへの危険を取り除き、ゲレイロを満足させる方法。まったく見当もつかない。二者択一の問題としか、彼には思えなかった。

 市場から彼の事務所までの帰り道は、比較的距離が遠く、道順が入り組んでいた。空は、夕日に照らされて真っ赤だった。レイは、裏路地に入った。人気のない道だった。カゴをぶら下げる彼は、後ろからつけてくる人影の存在を察知した。

 レイはさらに奥の道へ。橋の下の通りは、日光が届かず、うす暗かった。背後の足音は、だんだん近づいてきた。物取りか何かだろうか。レイは疲れたふりをして、カゴを地面に下ろした。迎撃の準備だ。

 突如、追跡者が走りだし、道で立ち止まったレイに跳びかかった。二人はもつれあい、道路の上に転がった。カゴがはずみで倒れ、入っていた食べ物が周囲に散らばった。レイに覆いかぶさる追跡者は、フードを深くかぶっていて、顔が見えなかった。

 追跡者はナイフを取り出し、その切っ先をレイに振り下ろした。すんでのところでレイは相手の腕を掴んだ。相手は、刃を突き立てようと力を込める。フードの隙間から、追跡者の焼けただれた顔の皮膚が露出した。

 レイは、相手の力を利用して、腕をぐっと引っ張った。追跡者はあっけなく地面に打ちつけられた。レイは素早く身を起こし、銃を取り出して構えた。

 敵も同じように起き上がると、レイに銃口を向けられていることに気がついた。相手は動けず、その場に固まった。無防備な彼の頭に狙いを合わせ、レイは引き金を引いた。引こうとした。

 しかし、引き金を引けなかった。

 彼は焦った。なぜ、撃てない。なぜ、引き金を引けない。今までこうして、さんざん人を殺してきたのに、一体どうして――。

 レイの手が震えはじめた。次に呼吸が乱れていく。彼の異常を察知して、追跡者は一目散に逃げていった。

 レイは、逃走する敵の後ろ姿を、立ち尽くして見ていた。追跡者の焼けただれた顔が、彼にある光景をフラッシュバックさせた。

 つい先日の、仕事の記憶だ。悲鳴と血の臭いが体中に纏わりついた――あの場所の景色だ。




 星のきれいな夜空の下。火の海になった小さな村で、ゴーストは火事から逃げ遅れた住民を撃ち殺して歩いた。悲鳴を上げ、右往左往する若い女。崩れ落ちる家を見て、頭を抱える男。子どもが見当たらず、途方に暮れて立ち尽くす女。彼らに銃を向け、引き金を引く。見つけては、引き金を引く。何度も何度も、引き金を引く。

 銃口を突きつけられ、絶望する目の前の男。彼の表情を見つめながら、引き金を引く感触。吹き上がる鮮血。あっけなく倒れる、人間だった肉のかたまり。体中に浴びた返り血。銃を握る殺し屋の瞳がいつのまにか赤く染まって、炎の中で輝いていた。

 倒れて動かなくなった男に、女が駆け寄ってきた。彼女は、動かなくなった男の名前を繰り返し絶叫する。霊は、彼らの前から立ち去った。あの二人が、この村で一番外れに住む者たちのはずだった。つまりこれで、仕事は終わったのだ。あとは帰るだけ。この地獄からおさらばだ。こんなところには、二度と来たくない。早く帰りたい。体が熱い。

 真っ赤に染まった村の中を、彼は一人で横切っていった。




 依頼を受けてから一週間ほどたった頃のある日。ミクルが事務所の隅に置いてあったドレッサーに向かい、化粧をしていた。整った顔の上に、筆を走らせる彼女。ソファに寝転んでいたレイは、その様子をじっと眺めていた。

「気になる?」

 彼の視線に気づき、ミクルは鏡越しにレイを見た。彼は起き上がると、ミクルの後ろから化粧の行程を覗いた。

 興味を示したレイに、ミクルはメイクの手順を一通り教えた。レイは化粧道具を拾い上げると、「ちょっと使わせてくれ」と言ってミクルの顔に手を添えた。

 初めてとは思えないレイの鮮やかな手つきに、ミクルは感心した。一通りの化粧道具を使った彼が「よし、出来た」と呟いた。ミクルは鏡を振り返った。レイによって化粧を施された自分を見て、彼が突然ミクルにメイクを始めた理由がわかった。

 鏡に映ったミクルは、ミクルではなかった。全く別の誰かに、変貌していたのである。

「レイ、すごいわね。まるで別人になったみたい」

 そう驚く彼女を見て、レイは何やら納得がいっていない様子だった。

 ふと、彼の頭に、あの追跡者の顔がよぎった。フードの下の、溶けてただれた皮膚。

 ……そう、皮膚。皮膚だ。いっそ顔の皮から、メイクしてつくってしまえばいい。




 レイが依頼を受けてから二週間が経った。ゲレイロは、レイに街の外へと呼び出された。近くに大きな池がある森林地帯。そこでミクルを仕留めたとの報告を受けたのだ。夜の森の中を、ゲレイロが数名の部下を引き連れてやって来た。木の下で待っていたレイの足元に、人一人分ほどの大きさの、黒く細長い袋が横たわっていた。レイが、袋の上の方を開けてみせた。中から、真っ青なミクルの顔が露出した。

「こいつで間違いないか」

 袋の中を覗き込むゲレイロに、レイは尋ねた。

「……」

 ゲレイロは、彼女の心臓に耳を当てた。手を握り、脈を確かめる。そして何かを確信した様子の彼は、黙って死体の前から立ち去った。彼と入れ替わるように、部下の一人がレイに近づいてきて、大きな鞄を手渡した。中には、大量の紙幣が詰め込まれていた。

 ゲレイロを先頭に、森から去っていく彼らの後ろ姿を、レイは見送った。ゲレイロは、どこか哀愁を帯びた背中で、とぼとぼと歩いて行った。

 もちろん、レイの足元で横たわっているのはミクルではない。別の殺し屋が葬った女の死体を手に入れたレイは、天然ゴムから作った合成皮膚をかぶせ、ミクルそっくりの顔をかぶせた。袋を開けて冷静に観察すれば、ミクルとの四肢の長さの違いに気づいたかもしれない。




「本当に、お世話になったわ」

 大きな袋を背に載せて、ミクルは笑顔を浮かべた。街一番のギャングを虜にした美女は、そこにはいなかった。彼女は合成皮膚に顔を包み、冴えない印象の女にすり替わっていた。冴えない彼女の真の姿を知っているのは、この街に二人だけだ。

の手入れ方法は覚えてるか」

 レイが尋ねると、ミクルは「もちろん」と胸を張った。

「なあ。この街から出て行けば、そんなものも必要ないんだぞ」

「ここから出ていったところで、行くところのあてはないもの。それに――」

「それに?」

「この街にいれば、またあなたと会えるじゃない」

 そう言ってウインクする彼女を見て、レイは笑った。ぼさぼさの両眉がつながっている女がウインクを放つ姿は、なかなか滑稽だった。

「ずっとこの街にいるとは限らない」

「えーっ、そうなの」

 ミクルはがっくりと肩を落とした。

「殺し屋と何度も会うなんて、それこそ不吉だろ」

 レイがそう言うと、彼女も微笑を浮かべた。

「それもそうね。……じゃあね、レイ」

 ミクルは手を差し出した。二人は固く握手をした。

 彼女は、袋片手になんとか玄関を通り抜け、街の中に消えていった。レイは彼女が見えなくなるまで手を振った。事務所の中に戻ると、再び部屋の隅に追いやられたドレッサーが目についた。その後、彼がミクルと会うことは、二度となかった。

 



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