第39話 赤眼の男

 男は目を覚ました。

 彼の横の窓に、顔が反射して映ったのは、外がすっかり暗くなっていたためだ。高速で流れていく夜の景色に、白い肌と赤い瞳が印象的な男の顔が浮かび上がっていた。

 まだ寝ぼけ眼の男の唇の端から、だらしなく涎の筋が伸びていた。それを手で拭き取ると、彼は立ち上がって、大きく伸びをした。

 男は、いわゆる殺し屋を営んでいた。こうして列車に乗っているのも、仕事を終えて、家への帰路についているからだった。

 しかし、鍵付きの客室の中に一人きりとはいえ、睡魔に身を任せてしまうなんて迂闊だった。もしかすれば、彼が殺めた者の敵討ちのために、誰かが今まさに彼を追ってきている可能性も十分にあるのだ。それでも、彼は寝てしまったのだ。

 仕事を終えたばかりの彼は疲弊していた。人の命を奪うなんて所業は、数をこなして慣れる類の行いではない。命乞いをする相手に対し、銃をかまえて引き金を引く瞬間は、何度経験しても気持ちのいい体験ではなかった。

 特に、今回の仕事は、今後の自分の生活に影を落とす予感がしてしまうくらい、やるせないものだった。悲鳴と血の臭いが、彼の全身に纏わりついて離れなかった。鞄に入っている銃を、列車の窓を開けて、今すぐにでも放り投げてしまいたい気分だった。はめごろし窓だったので、それも叶わなかったが。

 駅に到着するまでの間、背筋に這いよるような居心地の悪さが、客室の中に充満したままだった。




 次の日の昼頃、列車は彼の住む街の駅に停まった。彼は一切寄り道をせず、拠点としている建物へ向かった。街で一番大きい通りの裏の裏の道に、彼の住処はひっそりと佇んでいた。表に出している看板には「ジャーナリスト事務所」という文言が踊っているが、彼は殺し屋であり、看板はうそっぱちである。

 彼は一週間ぶりに訪れた我が家の空気を吸い込んだ。埃まみれだった。窓を全開にして、部屋中を箒で掃く。備え付けで置かれていた、全く使っていないドレッサーも、しっかりと乾拭きした。それから近くの喫茶店に出かけ、適当に腹を満たし、すぐ事務所に戻った。窓を閉め、カーテンも閉め、光源はすべてシャットアウトした。もう、何日もまともに睡眠をとっていない。体中に纏わりついた死臭も鬱陶しかった。深く眠って、感覚をリセットしたかった。そんなことを考えているうちに、彼は眠りに落ちた。




 ドンドンドン!

 暗闇の中で、彼は寝返りをうった。

 ドンドンドンドン!

 目を擦る。何の音だ。というか、今何時だ。

 彼がスタンドの明かりをつけようと、宙を掴むようにもがいていると、玄関の方から物音が聞こえてきた。それまでの荒々しいノックとは異なる、金属がこすれ合うような音だ。

 それを聞いて、彼の頭は反射的に冴えわたった。ドアの向こうの何者かは、玄関の鍵を無理やりこじ開けようとしている。彼の命を狙う何者かが、建物に侵入を図っているのだ。そう彼は直観した。

 しかし、それならなぜ、ノックなんてしたのだろうか。こっそり鍵を開けて入ってこればいいのに、それだとまるで自分の存在をこちらにアピールしているようなものである。

「……上手く開かないなあ」

 よく聞き取れなかったが、扉の向こうの誰かが、何やらぼそぼそと呟いたようだった。ここまでくると、あまりに不注意すぎて、こちらの命を狙う者という見立ては限りなく消滅した。だとすると、物取りか何かだろうか。どちらにせよ、相手は住居侵入者だ。ろくな奴ではないはずだ。

 急に静かになったと思ったら、外から何か掛け声のようなものが聞こえてきた。いーち、にいの……と掛け声を発して、

「さん!」

 事務所のドアの蹴破り、女がなだれ込んできた。男は、懐にしまっておいた銃をかまえた。それを見た女は、倒れたまま、慌てて両手を上げた。

「ちょ、ちょっと待ってください。タイム!撃たないで!」

「喋るな。そこから動くな。お前、何者だ」

 女は泣きそうな顔で、訴えかけるように男を見た。

「わ、私、逃げてきたんです。悪い奴らに追いかけられて、だからその……助けてください!」

「だったらお門違いだな。回れ右して警察に行け。一般住居のドアを突き破ってくるな」

 女は剥がれたドアを、元の位置に戻そうと持ち上げた。「おい、動くなと言っただろ」と威嚇する男の言葉など構わず、彼女は必死にドアを直そうとしていた。誰かから逃げているというのは、どうやら嘘ではないようだ。




 部屋の明かりをつけ、男は彼女を椅子に座らせた。一応コーヒーも淹れて出した。彼女は明らかに苦みに苦悶する表情を浮かべながら、黒くて熱い液体をすすった。男は、玄関の扉を修理しながら尋ねた。

「あんた、名前は」

「ミ、ミクルです」

 彼女は全身を緊張させたまま答えた。コーヒーの入ったカップが置かれた小さな丸テーブルの上に、銃が放り出されていた。黒く光る銃身を、ミクルはじっと睨んだ。

「で、何に追われてるって」

「ゲレイロという男です。知りませんか?」

 その名前は、男もよく知っていた。街の中でも有数のギャングだった。

「ギャングが相手なら、やっぱり警察に行くべきだろ」

「行きました。でも、全然真面目に取り合ってもらえないんです。証拠がないと、動けないとかなんとか言って……」

 仮に彼女がゲレイロに脅しを受けているだけならば、物的証拠に欠ける、などと何かしら理由をつけて、警察が行動を起こさないというのはよくある話だった。そのせいで、若い女性や力のない市民が犠牲になるのも、これまたよくある話だ。

「それは残念だったな」

「何ですか、他人事だと思って!」

 ミクルはぷんすかと声を大きくした。しかし、男がそっけないのは、破壊されたドアを自ら補修することのやるせなさのせいで――つまりは彼女の自業自得なのだった。

「それで、あんたはどうしてうちのドアをぶち破ってまでここに来たんだ」

「だって、ここに殺し屋がいるって聞いたから」

 俯く彼女の発した言葉に、男は金づちを振る手を止めた。

「……そんなこと誰から聞いたんだ」

「ゲレイロの仲間が話しているのを聞いたの。この街には、腕利きの殺し屋がいるって」

 そう言われて、彼は納得した。ゲレイロではなかったが、以前この街のギャングの一人から、依頼を受けたことがあった。その話がまわりまわって、この女の耳に届いたんだろう。

「あなた、腕の立つ殺し屋なんでしょ。お願い、ゲレイロを殺して」

 ミクルは頭を下げた。目を強くつぶって、膝の上に置いた手は震えていた。男は金づちを置き、彼女のいる方へ戻った。ソファの端に腰を下ろし、ミクルの後頭部を見下ろした。

「いくら?」

 男はぶしつけに尋ねた。彼女はぱっと頭を上げると、自信なさげに指を折ってみせた。

「……それだけ?」

 男は顔をしかめた。

「これで精いっぱいなんです」

 ミクルは悲痛な面持ちで言った。

「あのな、そんな軽い気持ちで殺しを依頼されても困るんだ。人ひとりの人生を消してしまうんだぞ」

「軽くない!私にとっては、これでも大きな金額なの!」

 彼女は叫んだ。依頼を取り下げるよう狙った挑発は、逆効果のようだった。

 彼は困った。目の前の女は相当思い詰めているようだが、かといって街一番のギャングを敵に回すのは、報酬の金額的に割に合わない。詳しい事情がわからないことには、判断しかねる。とはいえ、話を聞こうと切り出せば、この落ち着きのない女が、依頼が成立したと早合点して喜び舞う姿も、容易に想像できた。

 男が何と返事をしようか困っていると、外で車が走る音が聞こえた。ミクルは、はっとして、椅子から立ち上がり、部屋の中をぐるぐる見回した。

「おい、どうしたんだ」

「車の音がしたでしょ。ゲレイロが来たんだわ」

「そうとは限らないだろ」

「この街で、あんなに大袈裟なエンジンを吹かす車を持っているのは彼ぐらいなのよ」

 なんて話していると、車は事務所の近くで停まり、人の降りてくる音がした。そして間もなく、二人のいる事務所の玄関をノックする音が聞こえてきた。

「やば――」

 ミクルは咄嗟に、ソファの裏側に転がり込んだ。そうやって彼女が身を隠したのとほぼ同時に、玄関の扉が開いた。鍵をかけ忘れていた。

 部屋の中に、男が二人入ってきた。黒いスーツを着こなす彼らはガタイがよく、という風貌をしていた。二人に遅れて、背の低い男が、ゆっくりと事務所に足を踏み入れた。

「……あんたがゴーストだな」

 男は低い声で言った。髪は剃り上げられ、眉の間に深いしわが寄っている。目は小さく、しかし鋭い。腹が少し出ていて、しっかりした造りのスーツを、絶妙なシルエットで着こなしていた。

「あんたに殺して欲しい女がいる」

 彼は唸るように呟いた。ソファの後ろの隠れたミクルは、口を手で覆い、必死に息を殺していた。

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