第38話 二人の行方

 警察署長は珍しく早朝に出勤した。行き先は警察署ではなく、留置所だ。彼は頭を抱えていた。一昨日収容したばかりの殺し屋は脱獄し、アパートに閉じ込めていたはずのウォッチャーは部屋を抜け出して、なぜか留置所の地下で伸びているところを発見されたのだ。呑気にベッドで寝ていた彼には、一体何がなんだか、訳がわからなかった。

 馬車を降り、留置所に入ると、一人の警官が彼に近づいてきた。「客人がお待ちです」。署長は不快感を示した。このクソ忙しい時に客人だと。誰だそいつは、と声を荒げた。応対する警官は口ごもり、「名前は、その、申し上げられないのですが……」と言って下を向いた。署長は、さらに不機嫌になった。そうかそうか。そんなに偉い奴がお待ちでおいでなのか。なら、さっさと案内してくれ。

 そう言われて、警官は署長を三階の一番奥の部屋に通した。




ゴーストが逃げたらしいな」

 署長が部屋に入るなり、ソファに腰かけていた男が言った。その淡々とした言い草に、署長は心臓を鷲づかみにされた気分になった。部屋の中には、アーヤム・瀬名がいた。彼は、その場で固まってしまった署長に、冷ややかな視線を浴びせて発言を促した。

「は、はい。大変、申し訳ないです……」

 署長は何とか声を絞り出して言った。慌ててアーヤムの向かいに座ると、

「彼は、私たちが総力を挙げて捜索しますので……」

 と頭を下げる彼を、アーヤムは興味なさそうな眼で見ていた。

「ところで、あなたの弟であるエリオット・瀬名についてですが……」

 署長は、自分の目の前に座っている恐ろしい殺し屋の様子をちらちら伺いながら、話を切り出した。

「仮釈放の身でありながら、監視の隙をついて脱走を図りまして」

「ああ」

「これは、警察としても見過ごせない事態です」

「ああ」

ゴーストの方も行方を暗ましてしまい、我々の手元に残った容疑者は、あなたの弟一人になってしまいました」

「ああ」

「実は、クロネ・エルフリート殺害未遂についての裁判が、もうすぐ行われる予定なのです。なので、ええとつまり。エ、エリオットを、容疑者として出廷させることに、なるのですが……」

 台詞の最後の方は、ほとんど聞き取れないくらいの声量だった。アーヤム・瀬名が連れてきたをみすみす逃がし、彼の実弟を裁判にかけることになってしまったのだ。しかも、エルフリートの命を狙っていたという証拠は十分揃っている。つまり、エリオットの有罪は、もう確定しているようなものだったのだ。

 署長は、またちらりとアーヤムの顔を見た。彼の眼は、署長を見ているのか、それとも彼の背後の壁を見ているのか、どちらともとれない虚ろな様子だった。

「かまわない」

 アーヤムがぽつりと呟いた。

「……ほ?」

 意外な返答に、署長は間抜けな声を出した。

「それでかまわない」

 アーヤムはそれだけ言って、また黙り込んだ。つい先日、エリオットを釈放するように要求してきたはずのこの男が、なぜかあっさりと弟の再拘束を承諾した。彼の意図が、署長には全く読めなかった。

 部屋の中に沈黙が流れた。署長は額に脂汗を浮かべ、時が過ぎるのをただ待った。




 その日の早朝に、中央区画の駅から出発した一本の列車があった。中規模編成の車両は、あっという間に市街地を抜け、路線の周囲を山や森が囲う自然の真っただ中を走行していた。一般の乗客が乗っている、三から五号車のうちの一両、その一室で、レイとQは腰を落ち着けていた。駅で購入した新聞を広げるQの傍ら、レイは窓から外の景色を望んでいた。不意に、Qが新聞から顔を上げた。

「そうそう。イーグルさんが師匠によろしくと言っていました」

 船で海を渡り、再びリバーサイドの港に到着したQとイーグルは、レイが留置所に収容されたという情報を掴むと、その日の夜、すぐ留置所へ潜入した。ウォッチャーをノックアウトしたあと、別の階で待機していたイーグルを呼んだQ。イーグルがレイを担ぎ上げ、三人は何とか留置所から脱出した。

 例の古びたアパートにレイを運び込むと、イーグルは足早にそこから立ち去った。「実は、別の用件がまだ途中でな」と彼は言い残し、Qに別れを告げた。翌朝、目を覚ましたレイは、Qと共に、次の目的地に向かうため駅へと訪れた。瀬名がまた追ってくるかもしれないという状況下で、すみやかに街から脱出する必要があった。次に取りかかる仕事は、現在地から遠い場所での依頼に即決された。

「師匠。イーグルさんとは、一体どういう付き合いなんですか」

「昔、仕事で一緒になったことがあったんだ」

 レイは、多くを語らなかった。一聞けば十答えるいつもの彼に比べると、その日は圧倒的に口数が少なかった。Qから特に追求もなかったので、レイは再び窓の外を注視する作業に戻った。

 結局、Qとイーグルたちは、街でルーカスと再会することはなかった。「簡単に死ぬような奴じゃないから問題ない」とイーグルは言っていたが、Qにとって命の恩人である彼の安否が心配だった。かといって、レイの救出が最優先だったので、ルーカスを捜索するための時間はなかった。Qも、彼の無事を祈るだけにとどまった。

 二人を乗せた列車は、彼らを次の舞台へと、着実に進んでいった。




「あ、お兄ちゃん見つけた!」

 留置所から出てきたアーヤムを、シエロが指差した。兄に向って、彼女は一目散に駆け出した。何やら騒がしい人影に気づいたアーヤムが怪訝な顔で振り返ると、飛び込んできたシエロが、彼の視界いっぱいに映った。

「シエロか」

 抱きつく妹を、彼は優しく受け止めた。留置所の前まで彼女を連れてきたルーカスは、兄弟の再会の様子を見て、胸を撫でおろした。彼の後ろで監視の目を光らせていた瀬名の手下たちもルーカスから離れていき、アーヤムの部下たちと合流した。自由の身になったルーカスは、うれしいような、少し寂しいような、そんな気持ちのまま、静かにその場を去った。

「あれ、ルーカスがいない。もう行っちゃったのかな」

 シエロが後ろを振り返ると、もうそこにルーカスの姿はなかった。彼女は、兄を探す旅に同行してくれた(無理やり連れてきた)男のことを、アーヤムに語った。

「シエロ。とりあえず、馬車に乗るぞ。話はそれからゆっくりしよう」

 彼はそう言って、手を挙げて馬車を止めた。アーヤムとシエロは、座席に二人で乗り込んだ。馭者に行き先を告げると、馬車はゆっくり動き出した。

「もう。どうしていっつも、お兄ちゃんは私を置いて行っちゃうのかなあ」

 シエロは腕を組み、隣に座る兄の顔を睨んだ。アーヤムは「すまない」と小さく呟いた。

「お兄ちゃんが捕まえた殺し屋、逃げちゃったんでしょ。残念だね」

「奴もただでは死なないということだ」

 あの殺し屋をそこまで敵視していない兄の様子を見て、シエロは少しほっとした。

「ふーん。でも、今度はまたエリオットが捕まっちゃったんでしょ。助けなくていいの」

 顔を覗いてくるシエロを、アーヤムは横目で見た。彼女の顔を見ると、なんとなく心が落ち着くような気がした。

「あいつを助ける義理はない。というか、なくなった」

 それを聞いて、シエロは胸が高鳴った。

 エリオットを助ける義理がない。それはどういうことだ。何を意味するんだ。母による支配から、兄は解放されたということだろうか。

 シエロはアーヤムから視線を外し、前を向いた。小窓から、馬の頭が揺れている。彼女は、兄の言葉を反芻して、その真意を導き出そうとした。しかしそれは、ほかならぬ兄の声によって中断を余儀なくされた。

「……シエロ」

 頭を掻きながら、アーヤムはばつの悪そうな顔で言った。兄から話を切り出すなんて珍しい。シエロは彼の顔をじっと見た。

「なに、お兄ちゃん」

 妹の無垢な瞳に見つめられ、アーヤムの中で羞恥や申し訳なさが次々と噴出してきた。彼の顔は、思わず蒸気した。

「……お前がくれた、あの写真なんだが」

「うん」

「落としてしまって」

「は?」

 無垢な瞳がぎらりと光り、シエロは鋭い眼を向けた。アーヤムは焦って、

「待て、違うんだ。俺が落とした写真を拾ったエリオットが、その――捨ててしまったんだ」

「何それ。弟に責任をなすりつけるんだ。そもそも、写真落としたお兄ちゃんの不注意でしょ。違う?」

 鬼気迫る表情の妹に、兄はたじたじになった。満面の笑顔の彼女が、ますます恋しくなった。

「すまない。この通りだ。あやまる。許してくれ」

 そう頭を下げるアーヤムをシエロはじろりと睨んでいたが――ふと、あることに気がついた。

 兄が私の写真をなくすことなんて、これまで数えきれないほどあったことだ。それについて、兄は今まで別に謝りもしなかったし、そもそもシエロが毎回ほぼ無理やり押し付けているものなので、彼女自身も謝罪の有無など気にしたことはなかった。

 しかし、今、目の前にいる兄は、写真をなくしたことについて、彼女に謝っている。それどころか、なくしたことについて、言い訳までしている。これは一体どういうことだ。

「それでだ。なくした手前、言いづらいんだが……その」

 アーヤムは、言いなれない文言を並べるのに苦戦しつつも、必死に言葉を絞り出そうとしていた。顔を赤くして口ごもる兄を、シエロは黙って見ていた。

「しゃ、写真なんだが……新しいのを、くれ」

 そう言い切って、アーヤムは耳まで真っ赤に染まった。顔に汗も滲ませて、今まで見せたことのない表情をしていた。シエロは、彼の言葉の意味をすぐには理解できず、何度か自分で唱えてみた。そして、彼女の体中を駆け抜けていく何かを感じた。

「お兄ちゃん」

「な、なんだ」

 アーヤムは恐る恐る視線を合わせた。彼を見上げるシエロは、満面の笑みを浮かべていた。それは、写真に焼き付いていたあの表情そのものだった。

「『くれ』じゃなくて、『ください』でしょ」



 




 

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