第36話 彼は解き放たれた

 レイノルドはそわそわしていた。廊下に設置されている長椅子のまわりをうろうろと歩き回って、しきりに時計を確認していた。

「レイ、少し落ち着きなさいよ」

 長椅子に腰かけているクロネが、彼をいさめるように言った。レイノルドはクロネの方を振り返り、汗を滲ませた顔をみせた。

「だって、クロネ様。今日はリール様が、あの事件以来初めて、父親と顔を合わせる日なんですよ。これが落ち着いていられますか!」

 彼は大袈裟な身振りを交えて訴えた。彼らは、留置所に来ていた。まだ罪状が確定していないエラルドとウォッチャーは、そこの地下の牢屋に捕らえられていた。

「ちょっとレイ、あんた鬱陶しいんだけど。あたしらが騒いだってどうにもならないんだし、おとなしく待機してるしかないっしょ」

 クロネの隣に座るキュロロが、うんざりした顔でレイノルドを見た。

「だけどさあ」

 彼はおどおどして、一向に落ち着く気配はなかった。すると、廊下の向こうから彼らの方へ、歩いてくる影があった。数人の男たちに囲まれて、身長の高い黒髪の男が、クロネたちの横を通り過ぎていった。只者ではない気配を漂わせる男たちを、彼女たちは息を潜めてやり過ごした。

「なにあいつら。あきらかにヤバい雰囲気漂わせてたよ、クロネ様」

 キュロロは、廊下の奥に遠ざかっていく男たちを、じっと目で追った。

「彼ら、地下に向かっているんじゃないですか」

 レイノルドは、太い腕を組んで唸った。

「ということは、ここの関係者か何かかしら」

 クロネも首を捻って考えてみた。牢屋がある地下階層は、基本的に関係者以外立ち入り禁止だからだ。当然、彼らの内で、あの長身の男が殺し屋・瀬名一族の長男であり、ウォッチャーの兄であることを知る者は、一人もいなかった。




 車椅子の男と入れ替わりで、アーヤムは面会室に入った。鉄格子の向こう側に、体中を包帯でぐるぐる巻きにされた、エリオット・瀬名が待っていた。

 アーヤムは無言で椅子に座った。立会人の警察官が、「面会開始」と言って時計を確認した。その声を聞いて、エリオットはうなだれていた顔を上げた。そして、目の前にいる兄弟の顔を見ると、口の端をいやらしく吊り上げた。

「あれ、アーヤム兄さんだ。久しぶり。どうしたの、こんなところまで来て」

 彼はおどけてみせたが、胸の中では、ひそかに期待を膨らませていた。アーヤムが彼の前に姿を現すとき、決まっていいことが起こるのだ。彼にとって、兄は都合のいい助け舟だった。彼は、兄の性分をすっかり見抜いていた。死んだ母の幻影に踊らされる哀れな兄を、彼は嫌いではなかった。

 エリオットは兄の言葉を待った。こみ上げてくる笑みが隠せなかった。面会記録を取っている警察官も、有罪判決を目前にしたウォッチャーが、必死に笑いをこらえているのを見て、ついに頭がおかしくなったのかと思っただろう。

 アーヤムは、ゆっくり口を開いた。

「……今日でお前は解放だ」

 エリオットにだけ聞こえるほどの声量で告げられた言葉に、狂気に近い喜びがエリオットの表情筋をじわじわと浸蝕していった。エリオットは全身を蝕む痛みなど忘れて、椅子から飛び上がり奇声を発した。それを見た記録係の警官は、彼の精神病棟行きを確信しながら調書をとった。




 夜になり、ほとんどの職員がいなくなってから、エリオットは出所した。殺し屋がむざむざと娑婆に戻ってくるのだ。人目は避けて当然だった。彼は地下のかび臭い牢屋から解放され、有頂天に達していた。留置所の廊下を、アーヤムを先頭にして彼らは進んだ。

「さすがアーヤム兄さんだ!あのしみったれた檻の中から出られてせいせいしたよ、ありがとう」

 エリオットは上機嫌で、前を歩くアーヤムに話しかけた。彼は見向きもしなかった。が、エリオットは大して気にしていないようだった。

「お前はまだ仮釈放の身だ。お前の代わりに牢屋に入った者への調査が終わるまで、監視付きで警察指定の建物の中で過ごしてもらう。解放されるかどうかは、その調査の出来次第だ」

「代わりって、あの使用人野郎のこと?」

 アーヤムは無言で肯定した。エリオットは跳び上がった。

「やったー!ざまあみろってんだ、あの赤眼野郎め。僕を痛めつけるからそういう目に遭うんだよ」

 少年の瞳はぎらぎらと輝いていた。彼が、自分の手の届く場所に戻ってきたレイの命を狙っているのは明らかだった。

「ところで兄さん。今日はあの女と一緒じゃないんだね」

 あの女。彼が言うあの女とは、姉であり、アーヤムの妹である、シエロ・瀬名のことだった。

「今日はいない」

「よかったー。僕苦手なんだよね、あの人。兄さんも、いつもしつこくつきまとわれて大変でしょ」

 エリオットは渋い表情をつくって、兄に同情を示した。アーヤムが振り向かないので、特に意味はなかったが。

「そうそう。兄さん、さっきこれ落としたよ」

 そう言って、エリオットはポケットの中を探った。彼の言葉を聞いたアーヤムは足を止め、同じくポケットの中に手を入れてみた。あるはずのものが、そこになかった。

「ほら、母さんの写真」

 エリオットは、彼らの母親――瀬名涼子が写っている写真をアーヤムに渡した。それを受け取った彼は、写真を大事そうにポケットにしまった。

「……もう一枚、落ちてなかったか」

 母の写真を受け取ったアーヤムは、少し間を置いて尋ねた。エリオットが拾った写真は、二枚のはずだった。アーヤムのポケットには、写真が一枚も入っていなかったからだ。

「ああ、姉さんの写真でしょ。捨てといたよ」

 あっさり吐いたエリオットの言葉に、アーヤムは呆然とした。

「だって、兄さん、あいつに会うたびに写真を渡されて、うんざりした顔してたじゃん。だから、僕なりに気を利かせたんだよ」

 そう言ってエリオットは鼻を伸ばした。満面の笑みのシエロが写った写真を見て、鬱陶しさを覚えたために破いて捨てたというもう半分の事実は、彼は口にしなかった。シエロから写真をプレゼントされるアーヤムが困っていたのも、それはそれで事実だった。

 しかし、写真を失ってしまったアーヤムの中に、未知の感情が蠢いていた。

「……どうしよう」

 彼は呟いた。「え、何。なんか言った?」と、エリオットが聞き返したが、考え込むアーヤムの耳には届いていなかった。

 写真をなくしたことを、妹に何と言おう。彼女は怒らないだろうか。また写真をもらうことは出来るだろうか。

 アーヤムは、シエロの写真を紛失して不安を覚えている自分に、まだ気づいていなかった。

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