第35話 それぞれの船上

 船は順調に航海を進めていた。エリオットが待つあの街まで、あと二日の予定だった。夜の海は静かで、甲板の上には波の音がさざめいていた。アーヤム・瀬名は船内の客室に籠り、ベッドに腰かけて目を閉じていた。彼の傍らには、やはり瀬名涼子――彼の母親の写真が置かれていた。

 アーヤムは、ある違和感に気づいた。船に乗ってから、精神統一がやけに順調に行えていたからだ。いつ以来かわからないくらい久しぶりのことだった。しかし、喜ばしいことであるはずなのに、なぜか心が落ち着かない。一体どうして。彼の中に生じた疑問は、すぐに解けた。

 ああ、そうか。この船に、シエロが乗っていないからか。

 アーヤムは、街に彼女を置いてきた。いつも彼女が勝手に彼につきまとっているので、置いてきたという感覚も薄いのだが。夜になると、決まってシエロはアーヤムの部屋に入ってきて、彼の瞑想を一時中断させた。そして二、三言ほど会話を交わすと、満足して部屋から出ていった。今回は、それがなかった。違和感の正体を明らかにして、アーヤムはほっとした。彼は、精神統一を再開した。

 それからさらに時間が過ぎて、彼は目を開いた。気分はいまいちよくなかった。精神統一の全工程を終えたというのに、心が地に足着かず、ふわふわしたままだった。海の上にいるせいだろうか――いや、それは関係ないはずだ。レイを追って来た時は、船の中でも心を落ち着けることが出来ていたからだ。

 レイは、船内の最下層に拘束されていた。一日一回の食事が運ばれる時以外は、彼は船の底の暗闇の中で独りぼっちだった。アーヤムの指示によるものだった。レイが、彼の心に、それなりの傷を負わせたという証明だった。

 アーヤムは船室の窓を覗いた。大海原がいっぱいに広がっていた。果てしなく広がる水平線が、彼の不安をより煽った。




「見て、ルーカス。今日は星がよく見えるわ」

 シエロは船の甲板に立って、夜の空を見上げていた。彼女の赤い髪が、潮風でなびいていた。彼女の後を追って船室から出てきたルーカスは、疲れた顔をしていた。

「お嬢ちゃん、星を見るのはいいけど、あんまり外にいると風邪ひくぞ」

 彼は、自分がどうして瀬名の娘と共に行動しているのか、成り行きとはいえ敵であるはずの彼女のお付きのような立ち位置に収まってしまっている今の自分の状況が、未だに飲み込めずにいた。

「ルーカスは優しいよね」

 シエロは無邪気に笑った。それは優しさというより、常にルーカスの背後で目を光らせている瀬名の手下たちの前で、下手な言動は慎んでいるから当たり障りのない優しい言葉を彼女に投げかけているのであり、あくまで状況がそうさせているに過ぎない側面があった。もちろん、兄を想うシエロに、ルーカスが少なからず同情に近い感傷を抱いているのも、間違いない事実ではあったが。

「お兄ちゃん、寂しがってないかなー。ああ見えて、かなりかまってちゃんだから。たしかうさぎ年だし」

 母親との関係性を鑑みても、そういう性格に育ってしまったのも当然だ、とルーカスは考えていた。親との関係性は、人間が行き当たる大きな問題の一つだ。アーヤムが親から受けた扱いは不当なものだとルーカスは思ったし、その問題を解決するにしても、母である瀬名涼子が亡くなってしまった今では、かなり難しいことのように思えた。アーヤムは、自分ひとりで母との関係に立ち向かう必要があった。

「だから、あのレイって人に頼んだの」

 ルーカスのひとり言を聞いて、シエロが言った。

「いくらあいつでも、今回ばかりは荷が重いと思うな」

 ルーカスはため息をついた。シエロは、アーヤムにレイとの会話の時間を設けるよう説得したらしいが、こうして一同がエリオットのもとへ向かっている以上、事態が好転しているとは考えにくかった。

「第三者にあれこれ言われるよりも、君から兄貴へ働きかけたほうがいいんじゃないか」

 ルーカスがそう言うと、シエロは空を見上げたままで、

「……それはしたくない。だって、嫌われるかもしれないから」

 弱々しく呟いた。彼女が気後れするほど、アーヤムが抱える問題は、彼の存在理由に関わる、とても繊細な事項だった。下手に刺激すれば、妹の彼女でさえ、彼に拒絶される恐れがあった。彼女の立場からすれば、兄に嫌われるということは、絶対に回避しなければいけない事態なのだった。

「でもなあ、お嬢ちゃん。誰かを変えるってのは、そういうことだよ。自分が傷つくのを怖がってちゃ、何も変わらないさ。どれだけ傷つけられたとしても、自分だけは変わらずに、相手のことを見守っているしかないんだ」

 肩を落とすシエロを見て、ルーカスは彼女を勇気づけようとしているようだった。

「嫌われるかもしれない――そりゃそうさ、だって相手の心の中に踏み込もうとしているんだから。誰だって、自分の心に侵入されたら、拒否反応を起こすものさ。でも、君は彼に変わってほしいんだろう。だったら、相手が変わるまで、彼のそばでじっと耐えるしかないんだ。変わることが兄貴のためになる、そう君が考えてるのなら、もっと自分に自信を持つんだ。アーヤム・瀬名が変化を見せるかどうかはわからない。でも、唯一自分の行動だけは、自分で選択することができる。自分のことだけは、自分で変えることができる。レイを送り込んだ君の選択を――その結果を、俺も一緒に見届けるよ」

 ルーカスはシエロの隣に立って空を見上げた。星が、船の行き先を明るく照らしていた。

「……ずいぶん雄弁に語ってたけど、ルーカスも色々苦労したのかしら。女性問題とか」

 シエロの刺すような視線を向けられて、ルーカスはうなだれた。

「……そういうことは聞かなくていい」

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