第28話 相席
追手を振り切ったイーグルとQは、市場を抜け、広い通りに出た。馬車を拾って、イーグルが馭者に目的地を告げた。行き先は、錆びれた住宅地だった。塗装の剥げた建物が並ぶ寂しい景観の中を進むと、古びたアパートが見えてきた。Qは嫌な予感がした。
「あそこの二〇三号室が合流地点だ」
イーグルの言葉に、Qは彼の腕の中で肩を落とした。
またか。またこんなボロ家で寝泊まりする生活が始まるのか。彼女は、エラルド邸のベッドが恋しくなった。せめて、壁紙が剥がれていない天井を見て、眠りにつきたかった。
「どんな寝床でも文句いうな。殺し屋だろう」
アパートの古びた階段を昇り、イーグルが部屋の鍵を開けた。入口から部屋の中に光が差し込み、宙を舞う埃が照らされた。一種の遺跡のような、幻想的な雰囲気が演出された。
殺し屋である前に、十八の女子だ。Qは胸の中でそう主張した。
部屋には、貧相ながら医療設備が設けられていて、その固そうなベッドの上にQは乗せられた。
「傷の方はどうだ」
イーグルは彼女の体に毛布をかけた。
「麻酔が効いてるからかもしれないけど、あまり気にならないわ」
そうか、とイーグルは皮がぺらぺらなソファの上に座った。
「ルーカスが来るまでここで待機だ」
彼は銃を手元に置き、目をつぶった。ルーカスとは、おそらくあの白髪の髭男のことだろう。
「イーグル。さっき倉庫で見た奴が瀬名一族?」
「ああ。一族の長男、アーヤム・瀬名だ。十字架の模様が入った眼帯をつけていただろう。あれが一族の者である印だ」
Qは倉庫で見た男の姿を思い出した。たしかに、彼は眼帯をつけていた。
「奴は母親の命令に従順な男だ。母のことを深く愛していて、彼女の言うことなら何でも聞く、そういう奴だ」
「なんでそんなこと知ってるんですか」
「なんでそんなことも知らないんだお前は」
Qはむっと口をつぐんだ。確かに、彼女は殺し屋の世界になど興味はなかった。
それから、二人の間にしばし沈黙が流れた。ひびが入った部屋の窓から見える太陽は、少し傾いていた。時計すらないこの部屋では、今の時刻すらわからないが、おそらく午後三時くらいかな、とQは思った。
毛布が体を温かく保ち、Qの脳を眠気が襲ってきた頃だった。
ぐきゅるるうううううぅうぐううぅううぅ……
部屋の中に、イーグルの大きな大きな腹の虫が鳴いて響いた。
彼はぱっと目を開いた。
「腹が減ったな」
「そうですか」
「Q、何か食いに行くぞ」
いやいや。あの髭の人――ルーカスが来るまで待ってるんじゃなかったのか、とQは顔をしかめた。
「あんな男より、空腹を満たすことの方が大事だろう。こんな状態で、敵が襲ってきたらどうするんだ。」
彼はQが同意も反論も言い始めぬうちに、もう彼女のことを抱えてアパートを飛び出してしまった。
住宅地のすぐ近くに、商店や飲食店が集まる一帯があった。二人は、その外れでひっそりと営業していた喫茶店に入った。
「もう下ろしてくれてもいいんだけど」
道行く人から注目され続けて、恥ずかしくて仕方なかったQがイーグルの脚をぱしぱし叩いた。
「まだダメだ」
そう言って彼は、カウンターの奥でコーヒーを淹れている喫茶店のマスターに一礼し、窓際の席まで歩いてようやくQの体を下ろした。
「ありがとう」
Qは頬を赤らめたまま言った。イーグルは彼女の向かいに座り、メニュー表を手に取った。それを一瞥すると、
「よし決めた。さあ、次はお前だ」
三秒で献立を決定した彼は、目を丸くするQにメニューを手渡した。イーグルはオムライス大盛り、Qはハンバーグと野菜サラダを頼んだ。店内には彼らのほかに、新聞を広げる中年の男性が一人と、なにやらコソコソと談笑する主婦二人がいて、空席も目立った。窓の外を見ながら二人が注文の品を待っていると、新たな客が入店してきた。
「いらっしゃいませ」
マスターの低い声がカウンターの方から聞こえた。客は店内を動き回って席を探していたが、だんだんQとイーグルの方に近づいてきた。
「ねえ、相席いいかしら?」
二人は怪訝な顔で振り向いた。そこには、豊かな赤毛を一本にまとめたポニーテールの少女がいた。目が大きく、可愛らしい顔立ちをしていた。
わざわざ相席を申し出た彼女に対し、Qとイーグルは顔を見合わせたが、「まあいいだろう」と頷き合った。
「いいわよ」
Qが座るように促すと、彼女は「やったー」と笑顔を浮かべて、
「私、広い席に座りたいから、あなたどけてくれる?」
とQに言った。「何だこいつ」と口走りそうなのを押さえて、Qはイーグルの隣に移動した。
「あ、私パフェ。三つお願い」
少女は水を持ってきたウェイターにメニューを指差して言った。
「……私たちは食べないわよ」
Qが少女に言うと、
「何言ってるの。全部私の分よ」
と、平気な顔で言い返した。
テーブルの上に一番最初に到着したのは、少女が頼んだパフェだった。彼女は味の異なる三種類のパフェを、行ったり来たりしながら楽しんでいた。イーグルはおいしそうにパフェを食べる彼女をちらちら見て、先ほどから鳴り続けているお腹をさすった。少女はしばらく無言でパフェを食べていたが唐突に、
「二人は何の仕事してるの?」
と、Qとイーグルの顔を交互に見た。
「ゴミ掃除だ」
イーグルは言いなれた様子で答えた。誰かに職業を聞かれたときは、いつもそのように返しているのだろう。
「あなたも?」
少女がQの方を見た。
「うん」
「そーなんだー。実はね、私のお兄ちゃんもゴミ掃除の仕事してるんだ」
少女はにっこり笑った。天真爛漫さ溢れる眩しい笑顔だった。
「人が生活していくためには、必要な仕事だ」
そう言うイーグルは少女の笑顔を見て、どこか緊張感がほぐれたような感じだった。少女はスプーンを置いて、
「なんでゴミ掃除の仕事をしてるの?」
と、身を乗り出した。
イーグルは一瞬言葉に詰まったが、
「世の中の大抵の人間は、やりたくもない仕事を仕方なくやるもんだ」
と、諭すように言った。彼女は「おー、なんか名言っぽい」と感心した様子だったが、すぐにQの方へ向き直って、
「あなたはどう?」
Qの眼を捉えた。
「わ、私は――」
復讐のため、とは言えなかった。何かいい言い分がないか、と頭を回転させている間も、少女はじろじろとQの顔を見つめていた。イーグルも、Qの答えをじっと待っているようだった。
「そんなに答えに悩むようなこと聞いちゃったかしら」
少女は再びスプーンを持って、容器の底に残ったクリームをほじくり出す作業に入った。Qの額に、脂汗が滲んでいた。
――何と言えばいい。彼女は、何と言えば納得するのだろう。
「私は……私は……」
「お待たせしました、オムライス大盛りとハンバーグ、そしてサラダです」
テーブルの上に、料理が手際よく並べられた。答えに詰まるQを見て、イーグルは話題を変えようとした。
「君が聞いてばかりじゃつまらないな。今度はこっちの質問に答えてくれないか」
いいわよ、と少女はあっさり言った。Qは、静かに胸をなでおろした。
「俺の名前はイーグルだ。君は?」
そう言って、イーグルが大きな口でオムライスを頬張った。少女はぽかんとして、
「え?私がだれかわからないの?」
と心底不思議そうな顔をした。
「……わからないから聞いている」
イーグルが落ちついて答えると、彼女は「あっ」と短い悲鳴をあげて、ポケットを探りだした。
「そうだったそうだった!ごめんね、外してたの忘れてた。ダッサいから嫌いなのよねー、これ」
と言って、彼女は何かを取り出し、顔につけた。その瞬間、Qとイーグルの間に緊張が走った。
少女は十字架入りの眼帯をつけてにっこり笑った。瞬く間に顔つきの変わった二人を見てにやにやしていた。
「あら。私のことやっぱり知ってるのね、お掃除屋さん」
イーグルはスプーンを持つのと反対の方の手を、腰に下げた銃のホルダーに伸ばした。
「シエロ・瀬名だな。瀬名一族の長女」
「ぴんぽーん」
シエロは無邪気に笑った。先ほどまで普通の少女だったはずの彼女が、急に禍々しい雰囲気を放ち始めたように感じた。
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