第23話 壊れたからだ、壊れたこころ

 クロネは病院の廊下にいた。中央区画にある総合病院の三階だ。

 面会に同伴する看護士がやってきて、病室のドアを開けた。クロネは彼女の後について部屋に入った。

 中には、大きなベッドが一つあり、四方を白いカーテンで囲まれていた。看護士がカーテンの一辺を開けると、何本もの管につながれたリールが目をつぶって寝ていた。

 クロネは彼をじっと見つめた。目に涙が溜まってくのを感じたが、人前では泣きたくなかった。患者用の白い服を着たリールの胸が、膨らんだり、しぼんだり上下していた。


 クロネ、リールの二人が会場に戻らず、場内に不穏な空気が漂ったが、エラルドが手際よく祝賀会を閉め、ひとまずパーティーは終わった。レイの報告ですぐさま救急車両が駆けつけ、リールは慎重に運び出された。

 夜が明け、クロネは朝一番で病院にやって来た。医師からは、まだ意識不明だが、命に別状はないと告げられた。

 クロネは廊下で一人で待っている間、胸がぎゅうぎゅうに締めつけられて、苦しくて仕方なかった。こうしてリールを目の前にすると、それは余計に増した。

 面会時間いっぱいまでそこにいて、彼女は看護士に連れられ病院を出た。乗ってきた馬車の前で、9が待っていた。

「もうよろしいのですか」

 黙ったクロネは、力なく頷いた。二人が乗り込み、馬車は走り出した。

 二人は並んで座った。クロネは顔を落とし、9は正面を向いていた。

「リール様の容態はどうでしたか」

「……眠ったままだった」

「そうですか」

 死んではいないことがわかって、9は――ほんの少しだけ安心した。

「私、何もできなかった」

 クロネが呟いた。

「相手は殺し屋です。下手に手を出せばあなたが殺されていました。リール様はご自分の意志であなたを守ったんです」

 逃げたヘレナを警備員たちが屋敷を探し回ったところ、体を縄でぐるぐるに縛られたヘレナ・ブラウンが倉庫で発見された。リールを病院へ送った犯人は、ヘレナに変装した者だと判断された。

「あの人が殴られて、痛めつけられて、ぼろぼろになっていく姿を、ただ見ていることしかできなかったの」

 クロネは嗚咽していた。9は、手袋をはめて隠した手が、ずきずきと傷んだ。

「あなたを殺し屋が襲い、そしてリール様はあなたを守った。ただそれだけのことです。あなたに落ち度はありません」

 9は淡々と、表情を殺して言った。そうでもないと、彼女の中に渦巻く、何とも表現し難い感情の爆発が、体を突き破りそうだった。

「そうね。あの人は、私を守ろうと必死だった。なのに、私は……」

 彼女はそれきり、屋敷に着くまで黙った。9も何も言わなかった。声をかける気も起きなかった。大切な人が嬲られていく様を見た人間が壊れていくのを横に、ただ沈黙していた。




 レイはエラルドの書斎に呼び出されていた。エラルドは椅子に座り、珍しく不機嫌そうだった。

「レイモンド。私の大事な跡取りが、意識不明の重体で入院している。これは一体どういうことだ?」

「申し訳ありません」

 レイは深々と頭を下げた。それを見下ろすエラルドの眉間には、深いしわが刻まれていた。

「まったく、どこのどいつだ。私の屋敷で勝手な真似を……許せん」

「全くです。しかし、後悔ばかりもしていられません。クロネ様はわたくしがお守りします」

「今更何を言うか」

 エラルドは鼻で笑った。下をむいたままのレイは、不気味ににやりと笑った。

「エラルド様。実は、わたくしからもお話したいことがございます」

 その言葉に、エラルドは顔をしかめた。レイは顔を上げると、笑顔のままポケットから見覚えのあるサングラスを取り出した。




「クロネ様」

 寝室のベッドに座り込んだクロネに、レイが扉の間から声をかけた。

「お食事の準備が――」

「いらないわ」

 クロネは、膝に抱えた枕に顔をうずめたまま答えた。

「こちらにお持ちしますか」

 彼女は無言で否定した。レイは何も言わずに、そっとドアを閉めた。

「――レイ」

 クロネが消え入りそうな声で、顔を上げて手を伸ばした。レイはもういなかった。彼女は扉を泣き出しそうな目で見つめて、それからベッドへうつぶせに倒れ込んだ。

 もうすべてを投げ出したかった。何もかもを拒絶したかった。

 でも――誰かに助けてほしかった。

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