第20話 近くて遠い
「うん。あんまり食べないけど、パスタもなかなかおいしいわね」
クロネはフォークで器用に麺を巻き取りながら言った。シンプルながら洗練されたペペロンチーノは、その店の看板メニューだった。
レイとクロネは、中央区画のレストラン街にいた。流通業者との会談を済ませ、二人は最近出来たばかりというこのレストランに入った。
「そういえば、誰かがここの店をおすすめしてたっけ……よく覚えてないけど。レイ、どう?私はもう食べ終わりそうだけど」
彼女が向かいのレイの皿を見た。すると器には、まだ半分以上カルボナーラが残っていた。
「……口に合わなかった?」
クロネが心配そうに聞いた。レイはぼーっとクロネの顔を見つめていたが、我に返って、
「いえいえ、カルボナーラもおいしいですよ」
そう言ってパスタを頬張った。それで安心したクロネは、嬉しそうに彼を見ていた。
レイは、数日前に訪れたブドウ園での会話を思い出していた。ノワールの家で昼食をごちそうになった時のことだ。
気落ちした様子のクロネが、席を外した。「ちょっと農園を見てくる」と言って彼女は出ていった。家の中にはレイとノワールが取り残された。何ともいえない空気が流れていた。
先に口を開いたのはノワールだった。
「お嬢ちゃんはリール坊ちゃんと仲良くしてるかい?」
話しかけられると思っていなかったレイは、口いっぱいに詰め込んだパンを急いで咀嚼し、ぐっと飲み込んだ。
「お互いの存在が当たり前すぎて、不和が生じているように思います」
「ずいぶん難しい言い方するな、君は。しかし、儂も同意見だよ」
ノワールは頭の後ろで腕を組み、背もたれに体をあずけて天井を眺めた。
「あの二人は幼いころから一緒に過ごしすぎたのかもしれん。お互いの距離感が近すぎて、相手のことがよく見えていない。昔から、思いがすれ違うとこばかり見てきたよ」
「では、あの二人は……」
「お互い、特別な想いを抱いているだろう。ま、年寄りの思い込みかもしれんがの」
クロネとリール。彼らの間で起きる微妙な摩擦は、近くて遠い、二人の奇妙な関係を象徴していた。彼も彼女も、互いのことを大切に思っているのは間違いなかった。
そして、クロネのように、標的が抱える人間関係を利用するのが、レイの流儀だった。
「どうしたの?レイ。何にやついてるの」
クロネに指摘され、レイは反射的に口元を隠した。思わず笑みがこぼれていたようだ。「そんなにおいしかった?」と、目の前の女は呑気な顔をして笑っている。それを見ていると、余計に笑いがこみあげてきた。
彼は咳ばらいをして、表情をリセットした。
「はい、おいしいです」
「何を改めて澄ました顔してるのよ」
パスタを再び食べ始めたレイを見て、クロネは笑った。
「リール様、来客です」
ケイトが書斎の扉を叩いた。リールは机から立ち上がり、しわの寄った服を正した。ケイトについて廊下を進み、応接室へ入った。中には、エラルドのほかに、男女が一人ずつソファに腰かけていた。
「お、来たかリール」
奥の椅子に座っていたエラルドはリールの姿を認めると手招きした。客二人はリールを向いて立ち上がった。
「これはこれは、エラルド・リールさま。お久しぶりです」
男の方が芝居がかった口調で言った。丸眼鏡をかけた、丸みを帯びた体型の男だった。リールは彼の言葉を聞いて、過去の記憶を辿ってみたが、見た覚えのない人物だった。
「いえいえ、こちらこそ父がお世話になっています」
と、彼は誤魔化した。
「リール、こちらはミスター・ブラウンだ。お前が小さい頃、この屋敷に一度来たことがある。覚えているか?」
全く。
とは言わず、
「もちろんです。幼い時の記憶なので、定かではありませんが……」
と、記憶にない知人への、言いなれた文句を並べた。
「おやそうですか。いや、それは仕方ありません。リールさまはずいぶん幼かったですから。きっと、我が娘のことも覚えておいでではないかもしれません」
ブラウンが肉づきのいい頬を上下させながら言った。「娘?」と、リールは眉をひそめた。
「ええ、ええ。紹介します、こちらが私の――」
と、ブラウンが言い終わらぬうちに、彼の隣にいた女はリールの方へ近づき、
「ヘレナ・ブラウンです。リール様、私のこと、覚えてらっしゃいますか?」
勝気な印象の娘だった。茶のくせっ毛と緑の瞳が愛らしい。堂々とした振る舞いに気を取られがちだが、よく見ると整った顔をしていた。彼女の父の遺伝情報は、その姿からは全く見受けられなかった。
返事を待つヘレナに、
「いや、申し訳ないが」
リールははっきりと言った。
「あらそう、残念。ま、いいわ」
ヘレナは品定めするように、リールの顔をじっと覗いた。顔をまじまじと観察されて、リールはあまりいい気はしなかった。
「リール。ミスター・ブラウンはうちの最も大きな取引先になる方だ。今度、一緒に食事に行くことになった」
エラルドがそう言うと、ブラウンも「ほほほ……」と笑った。リールの目の前のヘレナ・ブラウンもにやりと笑って、
「今後ともよろしくお願いしますわ、リール様」
と軽く会釈した。リールは、なんとか笑顔で答えた。
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