第17話 欠けた月
Qは湿った寝間着を乾かすように上体を起こしたまま、何もない空間をぼーっと見ていた。規則的な心臓の鼓動はいつもより早くなっていた。あの悪夢のせいだ。
しばらくそのまま暗闇の中で静止していたが、一向に眠気はやってこなかった。彼女はため息をついて、部屋から出ていった。
夜の屋敷は静かだった。廊下をとぼとぼ歩いていくと、奥にバルコニーが見えた。ガラスのむこうで誰かが一人、外の柵にもたれている。Qは気になってバルコニーへ向かった。
リールの背後で、戸が開く音がした。今度は誰だ、と思った。
「――リール様ですか?」
幼さの残る、しかし落ち着いた声がした。振り向くと、黒のパジャマを着た9だった。
「寝れないのかい?」
リールは微笑を彼女に向けた。クロネとの衝突からしばらく経っていたので、そのくらいの余裕は戻っていた。彼の言葉に、9はこくりと頷いた。
「隣、いいですか」
「もちろん」
9はリールの隣に並んで立った。彼に比べて、9はずいぶん背が低い。
「寝つきが悪いのには、何か理由があるのか?」
「……よく夢を見るんです。小さい頃の記憶の夢です」
彼女はまっすぐ前を見つめていた。エラルド邸の敷地の外には、他にも大きな屋敷が何件も連なっていた。
「どんな夢なんだ?」
「私の父の夢です。父は――殺されたんです」
9は淡々と、そしてその割に合わないほど重い過去を打ち明けたので、リールは思わずひるんだ。
「……そうだったのか、余計なことを聞いてしまってすまな――」
「いいんです。誰かに聞いてもらいたいんです」
リールは9が自分の方を向いたことに気がついた。ややあって、彼女は俯いて、静かに語りだした。
「私は小さな村で、父と母と暮らしていました。幼い頃の記憶はあまりありません。思い出そうとすると、頭が痛くなってしまいます。村はとても平和な場所だと、私は思っていました。でも、その日は突然訪れました。村には火が放たれ、多くの村人が殺されました。私と母は、なんとか助かりました。でも、目の前で父を殺された母は、心を病んでしまいました。
私は村を出ました。あそこにいても、何も変わらないと思って。世界中をあちこち回りました。色んな仕事を経験しました。そして今はここに使用人として雇われています」
リールは黙って耳を傾けていた。9は、殺し屋になったことは、当然省略して話した。
「その時の夢を、今でもこうしてよく見るんです。だから、私はまともに寝られた記憶があまりありません」
「……今でも不安かい?」
「はい。故郷を離れて、見知らぬ土地に行って、しかも夜は眠れない。でも今は――」
9は再びリールを見た。
「リール様の横にいると、なぜか落ち着くんです」
と彼女は言った。無自覚に、笑顔を浮かべていた。リールはそれを見て、胸が熱くなるのが分かった。彼女を抱きしめてあげたくなった。
「そうか、うれしいよ。ありがとう」
リールはそう言った。9は驚いた。感謝の言葉を述べられるとは予想外だったからだ。
「い、いえ。それは私が言うべきことですよ」
不意を突かれて焦る彼女を見て、リールは可笑しくなった。9といると、彼もなんだかそうやって笑ってしまうことが多かった。
「そうかもね。じゃあ9、君が眠くなるまで、星でも見ながら話そうか」
リールの笑顔に、9もまた心が心地よい感覚につつまれていくのが分かった。炎の海の光景は、彼女の目の奥から消えつつあった。
「それだと、首が痛くなって余計に眠れなさそうです」
彼女がそう言うと、リールは笑った。9も一緒になって、二人で笑った。空に、欠けた月が光っていた。
クロネは寝室のベッドの上で、膝を抱えて小さくなっていた。部屋の窓から、かすかな星の明かりが彼女のもとまで差し込んでいた。
「クロネ様」
扉の前に、音もなくレイが現れた。
「何か御用でしょうか」
クロネは白のネグリジェに隠れた膝小僧を見たまま、
「……何も」
「え?」
レイが珍しく困惑した顔を見せた。
「ええと、ではわたくしは何をすれば――」
「そこにいて。あ、こっちには来ないでね」
クロネは目線だけレイへと動かした。暗闇の中で、彼女の赤く腫れた眼は、使用人が少しでもこちらに近づいて来ようものなら、壁に架かった剣で突き刺すのではないだろうか、と思わせる鋭い目つきだった。
ただ立っていろ、と言われたレイはさらに困惑して、命令の意図を汲み取ろうと思案に耽った。彼は結果的に、命令通りそこで黙って立っていることになった。二人の間にしばらく沈黙が流れた。
「レイ」
「――はい、何でしょう」
主人の問いかけに、沈黙は破られた。と同時に、彼の思考も遮られた。
「人間って――お互いのことを理解し合うのって、無理な事なのかしら」
「と、いいますと?」
「例えば、だれかに自分のことを分かってほしいときは、どうすればいいの」
「それは難しい問題ですね」
レイは顎に手を当てて考える仕草をした。
「人は、他人と分かり合えない生き物ですから」
「……それじゃ困るんだけど」
期待をこめた目線を落とし、クロネは再び足元に視線を戻した。
「クロネ様は、自身の理解者が欲しいのですか?」
「欲しいというか、私のことを分かってほしい人がいるんだけど――」
「それは、わたくしでは駄目ですか?」
「えっ」
クロネは思わずレイの方を見た。彼はいつものように澄ました表情で姿勢よく立っている。
「人は、他人を理解することは出来ませんが」
レイはクロネの方に一歩踏み出して、
「理解しようと努力することなら可能です」
そこに跪いた。
クロネは言葉に詰まった。
「えっと、それは――」
その時、廊下からガシャンと音が聞こえた。窓ガラスが割れた音のようだった。
「何……?」
クロネは扉の方を気にした。レイは――その一瞬で顔つきが変わっていた。目は、赤い光を放っていた。
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