第16話 目の前にあるはずのもの

 クロネがバルコニーへの戸を開くと、そこには先客がいた。柵に手を乗せて、顔は下を向いている。クロネにとっては、幾度となく見た光景だった。

 バルコニーの戸が開いた音が聞こえたので、柵にもたれかかったリールはため息をついた。ここなら一人でいられると思っていたが、そうではなかったようだ。

「今日はよく見えるわね」

 クロネはそう言って、リールの隣に並んで立った。彼は聞きなじみのある声を聞いて、少し安心した。先ほど吐いたため息が、彼女に聞こえてないように、と思った。そう思いながら、バルコニーの下に広がる庭をぼーっと眺めていた。

「せっかく晴れてるんだから、顔を上げたらどう?」

 クロネは空を見上げた。目線を落としてばかりのリールは、雲のない夜空にも、光る星々にも気づいていなかったのだ。

「どうもそんな気分にはなれなくてさ」

 リールは自嘲気味に笑った。彼の悲し気な横顔を見るのはこれで何回目だろうか、とクロネは思った。落ち込んだ時、彼は決まってここに来て、ぼーっと俯いているのだった。

「今日はどこに行ってたの?」

「スーパーズ・ホテル」

 ああ、そういうことね、とクロネは納得して頷いた。彼が気落ちしている時は大体社交パーティーの帰りと相場が決まっているのだった。

 彼女がすんなり自分の心境を把握してしまったので、リールは顔を赤くした。目も口も引きつった。腹の底が熱くなるのを感じたが、目を閉じて深呼吸した。

「君は?」

 下を向いたままのリールが尋ねた。

「商会。新しい醸造所の計画提案をしてきたの」

「どうだった?」

 リールの声がうわずった。

「……うまくいったわ」

 彼女はそう答えながら、身に着けたガウンをきゅっと握った。リールは少し間を置いて、乾いた笑い声を上げた。

「君はすごいね」

「そんなことない」

 クロネは自信なさげに呟いた。

「すごいよ。僕とは違う」

 リールは何か、あきらめたような言い草だった。

「何言ってるの。私たち、一緒でしょ?」

 クロネはリールの顔を見た。彼はうつむいたまま、何も言わない。

「一緒よ。だって、私たち、今まで一緒にここで暮らしてきたじゃない。だから同じよ、そうでしょ?」

 クロネは必死にまくし立てた。何も返してくれない彼に、胸が詰まりそうになった。

「違うよ」

 少しして、リールが彼女の顔を見てそう言った。

「君は、エラルドじゃない」

 その言葉を聞いて、クロネはリールの胸ぐらを掴んだ。沈んだ青い瞳がクロネを捉えた。

「そうね。私は私だもの。あなただってそうでしょ」

 彼女は声を押し殺して言った。かすかに震えた声だった。

「……ごめん」

 リールは目を逸らした。

「これは僕の問題なんだ。君には、わからないと思う」

 それを聞いたクロネは、ぐっと奥歯を噛みしめて、目をつぶった。

「……ええ、わからないわ」

 彼女はリールから手を離した。

「ねえ、リール」

 弱々しい声に、リールの目線は彼女の顔を捉えた。

「あなたは、私を知ろうとしたことがある?」

 あまり聞いたことのないクロネの声色は、か細くて、小さくて、なくなってしまいそうだった。その問いに、リールは答えられなかった。回答を持っていなかった。星空の下で、静かな時間が流れた。

 クロネはうつむいた。何かを探すような顔で黙り込んだリールを見ていられなかった。彼女は静かにバルコニーの戸へ向かった。

「クロネ」

 リールは彼女の方を振り返った。戸に手をかけたクロネの足が止まった。

「……おやすみ、クロネ」

 そう言うリールの顔は、暗く重々しかった。クロネは振り返ることも、返事をすることもなかった。戸が閉まる音がして、リールはまた一人になった。




 ――夜の闇の中で、赤く炎が燃えていた。目に入る家は全部燃えていて、空にもうもうと煙が昇っていた。

 村の外に遊びに行っていた少女は、門の前で立ち尽くしていた。村人たちの悲鳴が聞こえた。銃声が鳴っていた。感じうる全てのことが、少女の心を締め付けた。

 お父さんとお母さんを探さなきゃ。

 彼女は火の海をかいくぐって、村の中を走った。彼女の住んでいた場所は村のはずれで、門から一番遠かった。

 煙が肺に入ってきて、咳が止まらない。体は焼けるように熱い。でも走った。焦げた人の塊をよけて。だれかの悲鳴に耳を塞いで。そして彼女はたどり着いた。彼女の家は、まだ燃えていなかった。

 家の前には、三つの人影があった。銃声がして、内一人が倒れた。女の絶叫が聞こえた。あまりに凄まじい叫び声だったので最初はわからなかったが、それは少女の母の声だった。

 倒れた影に、母は駆け寄った。少女はその場から動けなかった。足が固まってしまった。目の前で起きたことを、脳が受け付けようとしないのだ。――母が抱いている父の身体は、もう動かない。




 Qは目を覚ました。目の前にあるのは天井だった。目の奥で燃えさかっていた炎は徐々に散り散りに消えていった。シーツを触ると、ひどく寝汗をかいていた。

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