第14話 リール・エラルド
空は暗くなり、星が光を放つ様子が、街からも見え始めた。9とリールは中央区画の高級ホテルへやって来た。いわゆる社交界への参加のためである。
日中の作業着姿が嘘のように、リールは煌びやかなスーツ姿で会場に現れた。黒のスーツと白のシャツのコントラストは、シンプルだが洗練された雰囲気を彼に与えた。彼が振りまく品の良さは、決して服装や装飾品だけに由来するものではなく、彼のスタイルの良さや整った顔立ち、優しい眼、そしてその物腰が醸造した成果物に間違いなかった。
「9、大丈夫かい?」
9はぼーっとしていた。リールの姿を見ていた。屋敷と特に変わらないスーツ姿ではあるのだが、さまざまな権力者たちが集う場所に来たリールは、どうやら戦闘態勢に移行したようで、隙のない顔つきへと変貌していた。普段の優しい表情とも、農園で見せた、少年じみた素の表情とも異なる、エラルド家次期当主としての大人びた表情だった。
「リール様。私は中について行ってもよろしいのですか?」
9は飛び入りの入場であり、会場の名簿に彼女の名前は記載されていない。それに加え――今の彼女はQとしてではなく9として振るまってはいるものの、いで立ちはあくまで素の彼女、そのものだ。何の変装もなしに、こういった華やかな空間に入っていくのは、かなり気後れした。
「9。君は僕の使用人だ。だから何も臆することはない。自分がこの会場の主役だと思って、歩けばいい。わかったかい?」
リールは笑みを浮かべた。自信に満ちた、頼れる男性の笑顔だった。9は無言で頷いた。
「ここはそんなに高級な空間じゃない」
という彼の小さな独り言は、だれの耳にも届かなかった。
パーティー会場への扉をくぐると、広い室内には着飾った男と女で溢れかえっていた。丸いテーブルの上には豪勢な食事が並べられていて、人々は必ず片手にグラスをもって、ひっきりなしに乾杯を繰りかえしていた。そして、リールの姿を見つけた者は、こぞって彼のもとに集まり、9とリールはいつのまにか周囲を人、人、人で囲まれていた。
「お久しぶりです、エラルド様」
「まあ、素敵なお召し物で」
「エラルド様、お仕事の調子はいかがですかな」
「私ども、最近事業が好調でして、折り入ってご相談が……」
「エラルド様、私の娘と会ってくださらないかしら」
「エラルド様、初めまして。話には聞いていましたが、目の前にするととても素敵……」
「さすがエラルド様です」
「エラルド様――」
エラルド様、エラルド様、エラルド様、エラルド様、エラルド様……。
矢継ぎ早に飛んで来る言葉の濁流に、9は完全に飲み込まれてしまっていた。当のリールは冷静な顔をして群衆をさばいている。横でふらつく9を視界の隅に認めると彼女の肩を押さえて、
「大丈夫かい」
9は顔を手で隠し、
「リール様、申し訳ありません……」
「いいんだ」と主人は言った。
「風に当たって来た方がいい。お酒を持って行って、外でゆっくり飲むんだ」
9は頷いて、人の輪から抜け出した。言われた通り、適当なテーブルからワインを見繕い、それを持ち出して部屋から出ていった。
夜の冷えた風を顔に浴びて、9はいくらか気分が良くなった。見ず知らずの人間に囲まれて、言葉攻めに遭うのがあそこまで精神を追い立てるとは思っていなかった。しかも、彼女はその当事者ではなく、ただリールの隣に立っていただけでこの有り様なのだ。リール本人がどれほどのストレスを受けたのかは想像もつかなかった。
「9」
会場につながっている扉が開いた。窓のそばに腰かける9のもとに、リールがやって来た。彼の顔は汗で少し光っていた。
「リール様」
彼は9のとなりに立って、夜の風を心地よさそうに浴びていた。ネクタイを緩め、シャツのボタンを一個、二個外した。首筋から胸に、汗の雫が流れた。
「気分はよくなったかい?」
「はい。多少酔いも回って、紛れました」
それはよかった、とリールは笑った。彼は9の持ってきたワインを傾けて、濃い紫の液体を自分のグラスに注いだ。
「リール様は平気なのですか。あの異様な空間が」
「全然。立っているだけで虫唾が走るね、あんなところ」
リールが思いがけずきつい言葉を口走ったので、9は驚いた。彼女の心証はリールも見て取れたようで、彼は苦笑した。
「ごめん、びっくりさせたかい?こういう場所に来ると、つい心に波が立ってしまって困る」
彼はワインを一気に飲み干して、ため息をついた。
「奴らの話を聞いてたかい?一度も、僕を名前で呼ぶ人間はいなかった。ただの一人もね。彼らが用のあるのは、エラルドという家柄であって、リールという僕個人じゃない。ここに来るたびに、いつもそれを突きつけられる」
街で権力を握るエラルド家の次期当主に、肥えた亡者たちが手をこまねいて寄ってくるのは道理だった。そして、それは社交界の本質でもあった。
「僕は――僕は……一体、何なんだろうね」
リールは力なく呟いた。今度は、9の耳にもはっきりと届いた。
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