第11話 あふれでたもの
体をのけぞらせて豪快に宙を舞うブラン。突然の出来事に驚くリール。拳を突き出した9。世界が止まったかのように、ゆっくりと時間が流れる。その刹那、9は「これはまずいことをしてしまった」と逡巡した。
地面に倒れ込むブランのもとにリールが駆け寄る。サングラスが外れた老人は目をぱちくりさせ、未だに自分の身に何が起こったのか把握出来ていない様子だった。リールはしゃがみこんでブランの体を起こす。「大丈夫ですか?」と心配そうに彼を見つめていた。上の空になっていた9ははっとして、二人のもとに行こうとした。
――あれ?
9の足が止まる。前に進もうとしているのに、まるで水中でもがいているかのようだった。彼女の身体から、地面を踏みしめる感覚が消失した。
――なんだこれ。
世界の色彩が突如反転した。空は黒く、土の道は白くなって、次第に視界が歪んでいく。9はその場で膝をついた。無論、本人にその自覚はない。
あたりが夜みたいに真っ暗になって、地にすがる二人の影だけが虚ろに浮かび上がった。それがブランとリールのものだとは、9にはなぜか考えられなかった。
倒れ、苦しむ××のもとに駆け寄っていく△△。この構図には見覚えがあった。何年前の記憶だ?――思い出したくない。辛く、悲しい光景だ。自分の心の深い場所に閉じ込めたはずの記憶だった。それをなぜ今思い出した?人を殴り飛ばしたことなんて、今までにいくらでもあるのに。
いや、違う。殺し屋の世界に、わざわざ倒れた仲間のところへ行き、いちいち安否を確認する人間などいない。だから、殺し屋同士の戦いでは、倒れた人間に駆け寄る何者か、という構図が発生しなかったのだ。そして、それは今、唐突にQの前に現れた。
では、そんな危機的状況でも、だれかの生死を気にするような人間とは?答えは明確だ。それは殺し屋でない人物だ。例えば――
「Q。例えばそれは、瀕死の夫に駆け寄る、君の母親のことかい?」
唐突だった。目の前に、こちらに銃口を向けたレイが現れた。
「いやあ、突然体が飛んでったからすっかりびっくりしたぜ。嬢ちゃん、なかなかいい腕っぷしをしてんじゃねえか、ははは!」
木陰で、木の幹に背中をあずけるブランが大口を開けて笑った。リールは申し訳なさそうにブランの患部に氷入りの袋を当てている。
「ほ、本当にすみません……」
9はへこへこ平謝りを繰りかえした。大事に至らなかったとはいえ、主人の知人を出会って即殴り飛ばすなど、マナー違反とかそういった概念を超越した失態だった。
彼女の脳を突如襲った幻覚はレイの姿を最後に跡形もなく消え去った。Qは発汗し、顔が青ざめていた。しかし、ブランとリールの二人には、それは彼女が犯した暴力行為を反省するものだと映ったようだった。
「いや何、俺の風貌だと警戒するのも仕方ねえからよ。敵からご主人を守るための行動だと考えれば、パーフェクトな使用人だろ?」
ブランは、青くなった9を努めて明るくフォローした。リールは二人を交互に見ながら、何と言えばいいのやらと口ごもっていた。
「リール、もういいぜ。だいぶ楽になった」
ブランは氷袋を押しのけて立ち上がった。まだ少女と呼べる年齢といえど、一端の殺し屋であるQのパンチを真正面から受けて軽傷で済んでいるブランの頑強な肉体は驚異的だった。
「あの、ブラン様。私にできることがあれば何でもおっしゃってください。全力で取り組みます」
殴られたブランより真っ青な顔色の9が、地面に頭をこすりつけるかの如く懇願した。ブランはそれを笑い飛ばして、
「がはは!元々リールにも仕事を手伝ってもらうつもりだったからよお、それを一緒にやってくれりゃあ何も問題ねえぜ」
「そうだな。9、やってしまったことは気にするな。ただ、まあ何だ、あまり無茶なことはしないよう心がけてくれ」
リールは言葉を選んで言った。旧来の知人が殴られたのは事実だったが、9の行動を責める気は起きなかった。
レイとクロネはノワールと別れ、再び商会本部へと戻ってきた。馬車の中で、クロネは持参していた資料を何度も確認していた。
「午後は商会の重役会議よ。今回は私が議論の中心になるから、準備は怠れないの」
クロネの持つ紙面には、質疑応答の対応例や追記事項がいたるところに書き込まれていた。そのせいで資料の原本はインクでほとんど真っ黒になっていた。
「クロネ様は重要なポストについているのですか」
レイは正直な感想を洩らした。
「あら、意外だった?」
若きエルフリート家当主は、勝ち誇ったように笑ってみせた。
「レイ。あなたも会議に参加してみない?秘書としてなら、入室も認められると思うわ」
「一使用人としてそのような場に出るのは……」
レイがそう言うと、クロネはどこか
「あなた、今日は私を手伝いにきたんじゃなかったの?素直にイエスと答えなさいよ!」
さっきまでの余裕に満ちた表情が突然瓦解したので、レイは彼女の怒りに対してではなく、その変わりようが気になった。
「申し訳ありません。クロネ様に忠誠を誓っておきながら、とんだ過ちを……」
レイが力なく俯くと、クロネは我に返り慌てて何か口籠った。
「い、いえ、そこまで謝ることないわ。顔を上げて」
クロネはそう言って、沈んだ使用人に向けていた顔を、資料の方に戻した。
レイは下を向いたままだったが、特に気落ちしているわけではなかった。
彼の頭の中で、何か光明が見えそうだった。それは紛れもなく、標的の命を奪う筋道だ。
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