第10話 ギャング・ブラン
「……あ、ノワール。レイが戻ってきたわ」
クロネは、ブドウの木の間を歩いてくるレイの姿を見つけた。ついさっき、丘に向かって走り出した時のような覇気は全く感じられなかった。
「……どうしたの?」
主人のそばをとぼとぼと横切り、
「いえ、何も。お待たせしてすみません」
彼は小さな声で返した。ブドウ畑を走り抜け、わざわざ丘の上まで登った彼を待ち受けていたのは、望遠鏡を覗いて野鳥のスケッチをしていた子どもだった。息を切らせて肩を上下させるレイのことを無垢な瞳できょとんと見つめる少年を、ライフルを構えた殺し屋と勘違いしてしまったのです、と弁解するのは気げ引けた。
「もうお昼ね。……ご飯どうしようかな」
クロネは懐中時計を取り出してそれぞれの針の向きを確認した。繊細な装飾が施された時計の裏には名前が掘られていた。
「うちで食べていきなさい。おかわり自由にしておくよ」
彼女を見かねて、ノワールが髭をいじりながら得意げに言った。
「ありがとうございます、ノワール様」
喜ぶ主人に代わって、レイが感謝を述べた。
「使用人君はそこの草でも食べていなさい」
「おい、じじい」
ノワール宅は、レンガ造りの暖かみ溢れる家屋だった。中には大きな暖炉があり、その手前に安楽椅子が揺れていた。クロネとレイがテーブルに座ると、ほとんど待たずにパンとサラダ、ぶどうジャムの入った瓶が卓上に並べられた。
「クロネ嬢ちゃんはここらのブドウ農園を全部取り仕切ってんだ。ほんと、立派になったなぁ」
新顔のレイに、ノワールは自慢げに説明した。レタスにドレッシングをかけて口に放り込み、ゆっくりと顎を動かした。
「ノワール、私はもう二十一なのよ?」
急に褒められたクロネはおどけてみせた。頬が赤く染めて、うれしいような恥ずかしいような、反応に困った子どものような顔をしていた。
「いつのまにか大きくなって。最近、ますますお母さまに似てきたよ」
ノワールは上機嫌に話していたが、クロネの表情に影が差した。彼女は「そうかな」と呟いてそれきりだった。
レイはパンにたっぷりのジャムを塗りたくりながら、先ほどクロネが取り出した懐中時計のことを思いだした。
時計の裏側に記されていた名前はクロネ・エルフリートではなかった。刻まれていた文字は、シン・エルフリート――彼女の母の名だろうか。それとも父?またはさらに上の世代か。
いずれにせよ、今あの屋敷に住んでいるのはクロネだけ。ノワールの言葉に対する彼女の反応から察するに、先祖の残した遺産の一つに違いなかった。
「お嬢は一生懸命頑張ってる。少なくとも、儂はそう思ってるからの」
クロネはありがとう、と笑った。その声は、やはり小さかった。
リールと共に馬車に揺られる9は、瞼が今にもくっついてしまいそうだった。その度に目を開き、すぐ夢の中に落ちかける。リールは、あろうことか主人の横で舟を漕いでいる少女を見守っていた。
「寝不足かい?」
主人の声がささやかれ、流石の彼女も目を覚ました。
「すみません」
「いや、どちらにせよ今の君は休暇中だ。何をしようが自由さ」
「……それはそうなのですが」
「使用人の部屋のベッドはあんまり高い品じゃないからね、取り換えてもらおうか?」
「とんでもありません。眠れないのはよくあることですから、どうか心配なさなず」
9は咳払いをし、背筋を伸ばして顔つきを整えた。つい先刻まで半分寝ていた彼女が急にかしこまった態度に改めたので、リールにはその様子が可笑しかった。
「もうすぐ目的地だ。もう目は覚めたかい、9?」
「はい、もちろんです」
すっかり冷静な面持ちを取り戻した9を見て、リールは笑った。
「……よだれ、垂れてるよ」
9は赤面しつつ、渋々ハンカチを取り出した。
まもなく馬車は止まった。9が地上に降り立つと、目の前には一面にブドウ畑が広がっていた。背の低い木が長い列を成し、それが幾つも規則正しく並んでいる。9は緑一色の景色に圧倒されながら、畑のそばに建っている、平たい屋根の小屋へ向かうリールの後に続いた。
「ブランさーん!」
リールは手を振った。視線の先には、かさ一杯の水が入った大きなバケツを両手に下げ、のっしのっしと畑の道を横切る老人がいた。
「やあ、ブラン。手伝いに来たよ」
リールがそう言って笑うと、老人は彼の方にぐっと勢いよく振り向いて、
「おうおうおうおうおうおうおう!その声は坊ちゃんだな。そうだろうオイ!!」
サングラスをかけたつるっぱげの男は、威勢のよさも相まって、この老人はギャングの一味ではないか?と9に思わせるほど、キナ臭い空気を醸していた。
「あの方はギャングですか?」
「まあ、七割そうかな」
バケツを放り出し、腕を振り回しながら二人のもとにやって来るブランの姿は、付き合いの長いリールには単にはしゃいでるだけと理解できても、今日初めて彼に出会った9の眼には、突然狂って暴れ出したとしか捉えようがなかった。迫りくる彼に正拳突きを浴びせて吹き飛ばしてしまった9のことを、一体誰が責められようか。
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