第9話 とぼけたノワール
レイとクロネは、商会本部の門の前で手配した馬車が停車するのを待っていた。クロネの隣で、レイはぐりぐりと首を振って、周囲をしきりに見回していた。
「どうしたの?」
挙動不審な使用人の様が、クロネは気になった。
「いえ、何でも」
冷静な顔つきを崩さないようにしていたが、外に待機しているはずのQの姿が見当たらず、レイは焦っていた。
「どこに行ったんだ、Q……」
門のまわりは、馬車を待つスーツ姿の男や清掃作業をしている作業着姿の若い女のほかに立ち止まっている人物はいなかった。Qが何らかのメッセージを残していないか、痕跡を探ってみたが何も見つからなかった。
「レイ、馬車が来たわ。ほら」
クロネは歩道の前に停まった馬車の扉を開け、もう車体に乗り込もうとしていた。レイはQを探すのをあきらめ、主人に続き車内へ飛び込んだ。
「まずはどちらへ?」
動き出す馬車。レイは今日の行程を知らされていなかったので、訊ねてみた。
「当ててみて」
クロネがいたずらっぽく笑う。
「……ブドウ農園でしょうか」
「ぴんぽーん」
彼女は書き写した天候データを手に、ウィンクした。
「農園の経営方針について調整しに行くの。栽培の規模、出荷数の見込み、品種改良案とかもろもろね」
「そういった業務はエラルド家の領域だと思っていました」
「あら、ワイン産業に関してはずいぶん前からエルフリート家が担ってるのよ。今のエラルド家当主は、政治が得意な人だからね」
政治――つまり人脈を形成し、円滑な取引を行い、自身の有利な状況を生み出す役回りがエラルドに相当するのだろう。確かに、あの冷徹で不敵なレオネル・エラルドにうってつけの仕事だな、とレイは思った。
「そういえばレイ。あなた、忍耐力に自信はある?」
馬車はしばらく走った。車内でクロネに行き先について話を聞かされたが、馬車から降りて目に入ってきた一面のブドウ畑に、レイはつい足が止まった。背の低い木が長い列を成し、それが幾つも規則正しく並んでいる。レイは緑一色の景色に圧倒されつつ、畑のそばに建っている、屋根の尖った大きな家へ向かうクロネの後に続いた。
「ノワールさん!」
クロネは手を振った。視線の先には、大きなハサミを持ってふらふらと畑の中をさまよう老いた男がいた。小麦色の日除け帽をかぶりオーバーオールを履いた、いかにも農民という風体の男だった。
「久しぶり、元気だった?」
クロネがそう言って笑ったが、老人には聞こえていないのか、ブドウの木のまわりをふらふらと歩き回るばかりだ。
「ノワール?もしもーし」
クロネが彼の耳元まで接近し声をかけると、老人は「ほ?」と、とぼけた顔でこちらを振り向き、虚ろな瞳でクロネを見上げた。
「……おお、フランソワか。見ないうちにずいぶん美人になったな」
老人は乾いた笑い声を上げて、クロネ(フランソワ)の肩をぽんと叩いた。
「違います。私です、エルフリートです。農園の経営についてお話に来ました」
「そうかそうか。フランソワは小さい頃は儂と結婚するのが夢だったからな。なに、今からでも遅くないぞ……ほほほ!」
見当ちがいな発言を続けるノワールに、レイは警戒の表情を示した。
「クロネ様。このボケ倒した男と、経営方針を語るつもりですか?」
「こら、レイ。ボケ老人が相手だからって、礼儀があるでしょう」
「ほほほ……全部聞こえてるぞ」
フェリペ・ノワールはこのブドウ農園を半世紀にわたって営んでいる男だ。髪は抜け、腰は曲がり、歯はほとんど銀色だが、ことブドウの栽培においては、エルフリート家から絶大な信頼を置かれている。
「ノワール、彼はうちの新しい使用人。レイよ」
クロネは警戒の面持ちを崩さないレイの肩を軽く叩いて、挨拶を促した。
「初めまして、ノワール様」
レイは深々と、そして渋々とお辞儀をした。が、ノワールはやはりぼーっと空を見上げてたまま無反応である。
「いつもよりクロネ様がお世話になっております」
レイはむっとした。彼はあえて一歩前に出て、にっこり笑ってみせた。
「車中でクロネ様から、ご高名の数々を伺いました」
「……」
老人は魂が抜けたままだった。レイは途端に表情を失って、
「クロネ様、帰りましょう。この男ついている二つの耳は飾りのようです」
踵を返してそこから立ち去ろうとした。
「レイ、あなたさっき車の中で『忍耐には自信がある』って言ったじゃない」
帰ろうとするレイの腕を、クロネはなんとか掴んだ。
「すまんの。男には興味なくてな」
ノワールは帽子を脱ぎ、呑気に口笛を吹きながら頭を掻いた。
ノワールに案内され、レイとクロネは畑の中を見学して歩いた。今年、新たに品種改良を行ったブドウが従来より頑丈な木に育ったこと、昨年起きた干ばつの影響が未だに残っていることなど、クロネとノワールは農園の現状の整理と今後の展望について、ああでもないこうでもないと議論を交わした。
議題の蚊帳の外だったレイはブドウの木を触ったり、葉の匂いを嗅いだりして暇をつぶしていた。すると、彼は不意に視界の端で不自然な発光を感知した。
素早く周囲に注意を払って発光体を捜索する。光は、ブドウ園を隔てた丘の上に生えている一本杉の影に認められた。どうやら杉の木の周囲に建物や人影は認められない。だとすると……、
――スナイパーか。
「レイ、どこに行くの?」
隣でいつの間にかワイン談義を始めていたクロネとノワールを置いて、レイは丘に向かって走り出していた。
「少々お手洗いに」
彼は徐々に足を早める。足元に土埃が舞う。
「おーい、トイレなら儂の家にあるぞ」
ノワールは、レイが走っていく方向とは反対にある、レンガ造りの家を指した。
「開放的な雰囲気の中でしたいのです!」
二人から離れ、どんどん小さくなっていくレイが振り返って叫んだ。
クロネとノワールは、颯爽と丘を駆け登っていく彼の後ろ姿を黙って眺めていた。
「お嬢ちゃん、あの使用人大丈夫かい?」
「さあ。あなたといい勝負じゃないかしら」
冷静な応答に、ノワールは、ばつが悪そうに頭を掻いた。
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