第6話 クロネとリール

 屋敷潜入開始から二日後。

 西館一階から屋上まで続く階段の清掃を午前中いっぱいしていたレイは、掃除に使った箒やモップ、バケツを両手に持って本館に向かった。一階の倉庫室に入り、掃除用具を棚に戻す。

「あ、師匠」

 レイと同じく、Qも大量の掃除用具を抱えて部屋にやって来た。

「階段掃除ですか?」

 たっぷり水の入ったバケツを床に置き、Qは一息ついた。

「ああ。あのばあさん、思ったより人使いが荒い」

「師匠、やめたほうがいいですよ。あの人、どこで聞いてるかわかりませんから」

 Qは唇に人差し指をあててレイを見た。

「レイ。そっちはどうだい?」

「それが昨日、エラルドが大事にしていたビンテージワインの瓶を割っちゃいまして……リールが庇ってくれたんですけど、こっぴどく注意されました」

「そうじゃなくて。リール・エラルドの情報だ」

「あ、そっちですか」


 リール・エラルド、二十歳。現当主レオネル・エラルドの一人息子であり、次期当主。温厚で正義感が強い性格。商会や取引先、上流階層からの評判もよい。

「それと、彼とクロネ・エルフリートとの関係ですが、幼い頃から交流があり、現在は互いに惹かれ合う仲のようです」

「なるほど、そこに関しては僕も異論ない。エラルドが彼女を消したがっているのは、二人の婚姻を阻止するためだろうね。落ちぶれたエルフリート家の娘より、もっといい相手とくっつけたいはずだ」

 Qがため息をついた。

「いつも通り、政治的理由ですね」

「若い二人には申し訳ないな」

 レイは箒を置くと、急にQへ近づいた。

「……なんですか」

「で、君自身はどう思う?リール・エラルドを」

「どうって、二日しか一緒にいないのでまだ何も」

 言葉につまるQ。目の前の赤い瞳が彼女をじっと見つめる。

「……いい人には間違いありません。優しいし」

 Qが目線を逸らす。レイは彼女の表情をしばらく観察していたが、

「――なるほど、おもしろい」

 そう言って掃除用具の片付けに戻った。圧から解放されたQはゆっくりと息をはいた。

「そういえば師匠、よかったんですか?変装なしで潜入して。……今更ですけど」

「短い期間ならまだしも、屋敷に住み込みで働く以上、毎日変装に時間がかかるのは一つのリスクだ。何のはずみで変装がバレるかもわからないしね」

 レイの特殊メイクによる変装は精巧だが、顔一つ仕上げるにはそれなりの時間が必要だった。特殊メイクは彼にしかできないので、Qは素顔の状態でレイと接触しなければならない。変装していたことが見破られる確率が高くなることは必至だった。

「それに、君も僕も、素顔のままが一番魅力的だからね」

 レイは意味深に呟いた。その言葉にQは顔をしかめた。




 すっかり日は落ちて、屋敷の中に火が灯り始めた。

 本館一階の広々としたダイニングルーム。中央に設置された縦に長いテーブルにはシワひとつない純白のテーブルクロスがかかっていて、グラスやナイフ、フォークが整列されている。リール・エラルドは肘を置き、テーブルを指でトントン叩いてそわそわしていた。

「あら、先に食べていてもよかったのに」

 クロネ・エルフリートがダイニングに現れた。シックな紺のドレスを纏い、蝋燭の火に照らされた彼女の顔は陰影がはっきりと浮かび上がっている。

「そうやってまた食いしん坊扱いかい?」

 リールがすこしむくれる。ワインレッドのジャケットに濃いグレーのシャツを合わせ、落ち着いた印象を与える。

「実際、小さい頃は食いしん坊だったでしょ。あの時は今よりしてたものね」

 そう言われてリールは今朝、彼の寝室を掃除していた9が幼いリールの写真を見て、『これはリール様の親族の方ですか?』と真顔で聞かれたのを思い出し、赤面した。

「君だって、こっそり農園に入りこんで木にってるブドウを勝手にもぎ取って食べたりしてただろ。ワイン用のブドウは酸っぱいのに」

 今でこそ澄ました顔で表を歩いているクロネだが、幼少期の彼女は屋敷の敷地を走りまわり、花壇の花を全部抜いて花冠にしてしまったり、彼女の父が所有する骨董壺にペンキを塗りたくったりと、よく言えば活発な性分の女の子だった。

「何よ、昔話を引っぱりだして」

 クロネが口を尖らせる。音もなくケイトがやってきて、そっとテーブルに夕食を並べてすぐ戻っていった。今日のメインは、レアで焼いた牛肉にソースをかけた一品のようだ。

「それにしても、使用人が急に二人もいなくなるなんて思わなかったわ」

 肉にナイフを走らせながらクロネが呟く。

「まあ、代わりがすぐ見つかったからいいじゃないか。どうだい?君のところの新しい使用人は」

 リールはサラダを頬張りながら訊ねた。

「そうね……エドワードみたいに可愛げがあるタイプではないけど、器用ね。それも少し憎らしいくらい」

 彼女はレイのことを思いだし、微笑を浮かべる。

「まだここに来て間もないのに、仕事はすっかり覚えちゃったみたいだし、部屋の掃除もずいぶん行き届いてる。文句なしね、惚れ惚れするわ」

 惚れ惚れする――その言葉にリールは肉を切る手を止めた。

「あなたのほうはどう?リール」

 どこか挑発的な笑みをたたえるクロネ。彼は小さく深呼吸して、

「まだ二日しか一緒にいないのに、どうと言われても」

 クロネは黙ったまま彼の言葉を促す。

「……あまり仕事の要領は得ないけど、一生懸命ではある。いい子だと思うよ」

「ふーん」

 クロネはワインを一口飲んだ。

「よくよく考えてみれば、確かにあなたが気に入りそうな子ね。儚げで、どこか頼りない、支えてあげたくなるような……」

「クロネ」

「メリルも最初はそんな感じだったわ。気弱な彼女はあなたを慕ってまるで兄弟みたいに」

「待ってくれクロネ。僕はそんなつもりで言ったんじゃない」

「そう、ならいいけど」

 それから二人は口を閉じた。皿とフォークが触れ合う音だけが、室内に鳴り続けた。

 ダイニングルームのようすを一望できる厨房の隅で、レイとQはまかないを食べながら、互いの主人たちの重苦しい食事風景を眺めていた。

「師匠、リールの気を引くための出汁だしに使われてますけど」

「狙い通りさ。Q、君の主人はいいやつかもしれないけど、けっこう鈍い男みたいだね」

「彼はそこがいいんです」

「……あっそ」




 食事を済ませた二組はそれぞれ西館・東館へ向かった。

 夜の西館。暗い廊下で先を歩くクロネと、半歩後ろをついて行くレイ。彼女はなんとなく早足で、絨毯をヒールで踏みしめた跡がくっきり残った。

「もう、長い付き合いなのに、あの男は。あとちょっとでいいから、私のこと、わかってくれないかしら」

 眼鏡のつるを押さえ、レイが淡々と意見する。

「リール様はクロネ様の質問に真正面から答えたのです。あの方の誠実さゆえかと」

「そうね。あまりにまっすぐすぎて、腹が立つこともあるけど」

「しかし、そこがあの方のよいところではないでしょうか」

「分かったような口を利くのね」

 クロネが横顔で、新米使用人の方をちらと見た。

「申し訳ありません」

「いいのよ。それぐらい言ってくれる方が張り合いがあるから」

 彼女は三日月のように笑った。




「また怒らせてしまったな」

 東館二階の廊下を歩くリールの足取りは重かった。

「二人で夕食を取れる機会はあまりないから、出来るだけこうならないようにしたかったんだけど」

「リール様は努力なさいました」

 彼の歩調に合わせて進む9は小さな声で、しかしはっきりと答えた。

「彼女に喜んでもらえないなら、意味はないよ」

 月明かりに照らされたリールの笑顔は、どこか寂しそうだった。

「クロネ様に喜んでほしいのですか?」

「うん。彼女を喜ばせたい。というか、認めてもらいたいのかな」

「……そうですか」

 廊下に射しこんだ青白い光は、ステンドグラスを昼と違った表情に演出していた。二人は黙々と歩き、ほどなくリールの寝室に辿りついた。

「今日も一日ありがとう、9。おやすみ」

「はい、おやすみなさいリール様」

 様はいらないよ、とリールは笑って寝室の扉を閉じた。







 

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