第4話 彼らのお仕事
地上十メートルの高さで綱渡りを披露する細長い男を、クロネ・エルフリート嬢がハラハラしながら真剣な眼差しで見つめる後方――レストランのテラス席で彼女をじっと眺めている男がいた。中折れ帽を深くかぶり、細く切れ長の眼を油断なく光らせている。ウールのセーターにスラックスを履いて、時折思い出したように皿に盛られたナッツを口に運ぶ。
男は周囲の風景に溶け込んでいたが、彼の視線を遮るように、テーブルの反対側の席に「ほい、失礼」と言って見知らぬ中年の男が勝手に座った。男はビールジョッキをどかんとテーブルに置いて、ナッツを勝手にひとつまみ口に入れた。
「……相席はお断りだ」
帽子の男は低い声で言った。
「え、何?声が小っちゃくて聞こえねえよ」
見知らぬ男はビールをぐびぐびと飲んでゲップを吐いた。顔が赤い。酒臭い息が帽子の男にかかる。
「おい邪魔だ、どけ」
帽子の男は身体をひねってなんとかクロネの背中を確認しようとする。ビールを飲む男の体がちょうど彼女のいた位置と重なり、彼女の姿が視認出来なかった。
「なんでえ!たまの休日くらい、好きに飲まさせてくれってんだ」
男はジョッキの底をテーブルに叩きつけた。周りの客の注目が二人に集まる。
「チッ――もういい、勝手に飲んでろ」
帽子の男が立ち上がろうとして、
「おっと、どこに行くんだい?そんな物騒な銃を隠してさ。まさか、だれかの命を狙ってるとか……」
酒飲みの男はおどけて見せた。帽子の男が彼を見る目つきは急に鋭くなった。
「一体何を言っているのかわからんな」
「ジャケットの背面が不自然に盛り上がっている。素人目にはわかりづらいけど、同業者ならすぐに見抜けるさ。――標的はクロネ・エルフリートだな」
中年男の瞳が赤く光る。帽子の男は席を立った。
「店を出ろ。話はしよう」
そう言って彼は外に出た。レイはにやりと笑って、彼の後を追った。
一方。
広場中央のステージから数メートル離れた屋台の影に、エルフリート嬢から視線を外さないもう一人の男がいた。コートの襟を立て、気配を殺し、まるでそこに存在しないかのような振る舞いで、人々は彼に気づかない――と思っていたら、彼の腰のあたりにドスン、と何かが当たった。
「?」
男が下を見ると、目に涙を溜めた少年が歯を食いしばって震えていた。
「……なんだお前」
男はやはり低い声で言った。
「おかあさんがいない。いっしょにさがして」
少年はそう言って男の服をぐいと引っぱった。
「悪いな、他を当たってくれ」
男は冷たくあしらう。少年は手を離さないが、無視。
少年はなおも食い下がって、
「……さがしてよ」
「だから――」
「いっしょにさがしてよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおうええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええん」
馬鹿みたいな声量で泣き出した。あまりの大声に綱渡りしていた男はロープから足を踏み外し、彼を見ていたクロネまでもが振り向いた。
広場に、少年の泣きわめく声だけが響きわたる。
「わ、わかった。わかったから、とにかく静かにしてくれ、な?」
コートの男が慌ててなだめると少年はぴたりと泣き止んだ。男の顔を見上げて、
「いっしょにさがしてくれる?」
「もちろんだ。探してやるから、とにかくここから離れたい」
やったー、と少年が無邪気に微笑む。彼らは手をつないでどこかへ歩いて行った。ほどなくして、縄から落下した細長い男が、ぐしゃりと嫌な音を立ててステージに着地した。
少年はコートの男の腕をぐいぐい引っ張って歩いて行く。
「お母さんはこっちにいるのか?」
「うん、こっち」
二人は広場から離れ、入り組んだ路地の中に進んでいった。
「本当にこっちであってるのか?」
「うん、こっち」
人気がどんどんなくなっていく。日の当たらない路地裏に入ると、とうとうそこには彼ら二人だけになった。
「……おい、待てガキ。お前一体何を考えて――」
手を振りほどいた男に、突如身を反転させた少年は彼のみぞおちに拳をいれた。よろめく相手の側頭部にすかさず回し蹴りを喰らわせ、吹っ飛んだ男はゴミの入ったバケツにぶつかって倒れた。
「子どもの格好も案外悪くないわね」
Qはゴミに埋もれて伸びている男に近寄って、コートの内側やポケットを探ってみた。出てきた財布の中には、例のブロンド碧眼の女の写真が入っていた。
「やっぱり」
Qは写真をトレーナーのポケットにしまい、立ち上がった――のだが、後頭部に突然衝撃が走り、彼女はいつのまにか地面に叩きつけられていた。
何が起こったか理解できないQ。後ろの方で声がする。「まさかこんな子供に化けるとは――」声の主は顔から倒れた彼女の頭をぐっと引っぱり上げた。Qの不明瞭な視界に、見覚えのある髭のおじさんが映った。
それは、広場で風船を配っていた男。敵は二人ではなく、三人いたのか――Qは薄れゆく意識の中で思った。
髭の男は彼女の額に銃を突きつけた。「悪く思うな、こっちも仕事なんだ」Qには、男がそんなことを言ったように聞こえた。
カチリ。男が銃の撃鉄を起こす。弾はもういつでも撃てる状態だ。
「ああ、終わった」徐々にブラックアウトしていくQの世界。彼女の最後の記憶に残ったのは、銃を構えた髭男の冷たい視線と、彼の背後――薄暗い路地裏で踊る、赤い光の筋だった。
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