汚い店先で、ようやく買い手がついた時だった。

 イリスは心の底から安心をしたことを覚えている。

 買い手が付かなければ、どこかへ連れていかれてしまう。

 日の当たらない場所へ……。


「貴族の旦那。何たってこんな汚い歌姫カナリアを買いに来たんで?」

「叔父からのお達しでね。僕は、気が進まないけれど」


 今日は貴族の旦那でも何でもない、ただ歌姫カナリアを見に来ただけだと彼―――ランクス・ボレアリス・リヴラは言った。


「この歌姫カナリア達、売れなかったらどうするんだ?」

「そりゃぁ旦那。へっへ……色々と、用途はありまさぁ」


 他の歌姫カナリア達が居汚く濁声を上げている中、イリスは囁くような、小さな声で鼻歌を歌う。

 自分だけは濁声を上げるような、居汚い歌姫カナリアではない。

 だから、どうか……と願いを込めて他とは違うように鼻歌を歌っただけだ。


「―――主人」

「な、何でしょう。旦那」

「あの檻の端にいる歌姫カナリアは?」

「あぁ。あの歌姫カナリアは売れ残りでしてね。今宵、買い手が付かなければ商品から外そうと思っていたんでさぁ。それよか、もし買うのなら他のもっと幼い歌姫カナリアはどうですかぃ? 調教は早いうちが最も良いですぜ」


 いや、と男はイリスを指差す。


「この子を貰う」


 釣りはいらない、と金貨がいくらか入った革袋を店主に渡すと店主は目の色を変えた。

 一体、自分にいくらの価値があるのか。

 拙い知識では金勘定も満足に出来ずに、ただ物のように檻から引きずり出されて一人用の檻に入れられ、新しい主人だという男に引き渡されたことだけは分かった。

 これからどうなるのだろう。

 歌を、歌を歌わせてくれるのなら、どんなことでも受け入れよう。

 歌姫カナリアとして教育されたのは、歌を歌うこと。

 主人には絶対服従。

 その二点だけだ。

 屋敷に到着して早々、檻から出された。

 見たことのない男女数人がイリスの主人となった男に、一様に頭を下げて出迎えていた。


「お帰りなさいませ。旦那様」

「あぁ。彼女を風呂に。それから、着替えを」


 屋敷は薄暗い店と比べ物にならないくらい、明るかった。

 温かい湯で頭や体を隅々まで洗われ、見たこともないくらい綺麗なワンピースを着せられてようやくリヴラ卿のいる部屋へと通される。

 座ってくれと言われ、首を傾げた。

 今まで座れと命令をされることはあったが、その他の言葉で言われたことはなくて戸惑っていると、手を引かれて柔らかなソファーに座らされた。


「君の名前は?」

「名前……あり、ません。私は、歌姫カナリアです。ご主人様。どうぞ、歌のご命令を」


 そして―――イリス、と名付けられ……イリスにとって幸せの、始まりだった。


「イリス。僕は君に命令はしない」


 リヴラ卿に告げられ、首を何度も傾げた。

 お願いはするが命令はしない、と。

 命令とお願い。

 その違いが何なのか、分からなかった。


「普通の人の娘として……歌が好きな娘として、僕と暮らして欲しいんだ」

「私は、歌姫カナリア、なのに……?」


 確かに、人の娘かもしれない。

 けれども店の店主に何度も言われたきた。


 ―――お前達は売られたんだよ! 商品が!


 付けられた総称は歌姫カナリア

 ただただ、総称が美しいだけの奴隷だった。


「イリス。僕は君の主人だ」

「はい……。ご主人様」

「でも、いつか君が―――」


 その後、主人は何と言っただろうか。

 とても、とても……幸せで、舞い上がってしまったような気がするのに、思い出せない。

 けれどもイリス自身の言葉は夢の中で思い出した。


「ご主人様が……ランクス様が、望まれるのでしたら―――」


 そう、答えた覚えがある。

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