天からの贈り物【テーマ:走る】
扉が動き始めるのと同時に、俺はそこに肩をねじ込んだ。つんのめりながらホームに飛び出し、走り出す。時間が惜しい。改札を駆け抜けざま、正面にあった時計を見上げると、午後8時を過ぎていた。
チケットに印刷されていた開演時間は「18:00」だ。コンサートの幕が上がって、もう2時間以上になる。
まさかこんなことになるとは、と俺はうなった。俺が看護師として勤務する救急外来は、確かに多忙な部署ではあるが、看護につきものの記録や申し送りは少なめだ。だから、普通なら勤務後の予定に遅れるなんてことはまずないのに、今日は終業まぎわに救急車が立て込んだうえ、次の時間帯のスタッフがまさかの遅刻。何とか終えてやっと電車に乗ってみれば、「線路に人が立ち入りました」でタイムロス。まるで何かの呪いのように、アクシデントが相次いだ。
とはいえ幸いだったのは、今日の演目がヘンデル作曲「メサイア」だったことだ。ぶっ通しに演奏しても2時間半の、長い曲。まだ行ける。まだ大丈夫。
俺は地図アプリで、ホールへの道を確認する。ここから大通りを直進、ふたつめの交差点を左――推定、徒歩5分。俺はまた走り始めた。クリスマス前の街を彩るイルミネーションが息の向こうに霞み、走りと一緒に揺れた。
ほんのわずかでもいい。俺はどうしても今日のコンサートを――いや、「彼女の歌声」を聴きたかった。
彼女の歌声に出会ったのは、高校入学直後だ。部活動説明会だとかで、1年生全員がわざわざ講堂に集められ、各部のパフォーマンスに付き合わされた。
生徒会か何かが企画したんだろうが、あいにく俺は、部活に興味がなかった。ステージ上に何部が出ようがどうでもいい。いつしか寝落ちして、とろとろと気持ちのいい夢を見ていた。
その夢が、突然割れた。圧倒的な何かが耳から押し寄せて世界を揺らし、一瞬で眠りを去らしめたのだ。俺はとっさに顔を上げた。
歌声が降り注いでいた。
舞台上は混声合唱部らしい。ただし、会場を鳴らしている歌声はただひとつ。伏し目がちに口を結んでいるメンバーの列から一歩出て、ひとり凛と顎を上げている女子――俺の目を覚まさせたのは、彼女のソロだった。
それは、歌というより声というより、輝きだったと思う。高く弧を描いて遠くまで届き、空間全体を共鳴させる、星のような響き。
彼女のソロはそれほど長くはなかったはずだが、俺は魂を奪われてしまったらしい。気付いたときには、合唱部に入部届を出していた。後になって、毎年全国コンクールに行くガチの強豪校のうえ、指揮者の趣味で古い宗教曲をやたら歌わされると知ってひきつったが、武藤彩さん――あの日のソリストと声をそろえるだけで幸せだった俺に、退部の選択はなかった。
気づけばいつも武藤さんを目で追っていた俺に、彼女は気づいていただろうか。恋ではない。憧れ、崇拝、いや単にファンというやつだ。だが、同じ部活とはいえ大所帯の合唱部で、武藤さんに握手を求めるような機会はついになかった。「この部で歌っていて、プロの声楽家になるという夢ができました。必ず、夢を叶えます」――引退の日、そう宣言した武藤さんに、「武藤さんならきっとなれる」と確信をこめて、拍手を送ったのが精いっぱい。
俺は走る。
あれからもう何年経ったのか。仕事仕事の繰り返しが当たり前になり、部活の記憶も遠くなったここ最近。ふと目に留まったポスターに彼女の名前を見つけて、俺は息が止まるほど驚いたのだった。
【天からの贈り物】とキャッチをつけたそのポスターは、とある指揮者が率いるオーケストラと合唱団の、クリスマス公演を告知するものだった。「武藤彩」の名前は、客演として、ソリスト欄の一番上にあった。
ドレス姿で少しななめを向いた写真は、間違いなく彼女。プロフィールには、彼女のいくつかの受賞歴や出演歴、それに現在は海外で活動中で、この出演は指揮者との縁故で実現したもので云々、ということが書かれていた。
もう一度聴きたいと強く思った。
あの歌、あの声。俺が憧れた、きらめく声を――。
俺は走った。そろそろ、ふたつめの交差点だ。これを左に曲がれば、ホールはすぐそこ。
最終コーナー。スピードを緩めず、歩道橋の足元を綺麗に走り抜ける。頭の中にハレルヤコーラスが鳴り出した。メサイア第2部のラストを飾る、有名な曲だ。今頃、会場でも歌われているかもしれない。
その直後だった。
「うっ、と……わああああ!」
背後で上がった、戸惑ったような声が悲鳴に転じた。同時にドドドと雷が鳴った。
いや、違う。雷鳴に似た音は、階段に何かがぶつかりながら落ちた音だ。誰かが歩道橋で足を踏み外したのだと気づいたところに、通行人たちの挙げた声が重なった。
俺は肩越しに振り返る。
階段の下のアスファルトに、人がごろりと転がった。グレーの短髪。高齢男性か。通行人たちが凍った。動かない、いやきっと、何かしたい思いと戸惑いとが渦を巻いて、動けないのだろう。
俺も別の意味で凍りついた。俺は職業が職業だから、状況を観察できるくらいには冷静だった。だからこそ、どうしようと思った。落ちた人は立ち上がりはしないが、手足に力があり、深刻なケガはしていないように見える。俺は、行っていいだろうか。憧れの声に向かって、走り去ってもいいだろうか。
だが、束の間のあと、俺は踵を返していた。
「すみません、いいですか。俺、看護師です」
一番近くで固まっていた人に声をかけ、下がってもらってから、かがみこむ。
「大丈夫ですか。聞こえますか?」
これは呪いか、いや天からの皮肉な贈り物なのか。少なくとも、俺に呪いかギフトのどちらかを届けた奴は、俺は走り去ることはできないと知っていたのだと思う。
頭の中のハレルヤは、聞こえなくなっていた。
**
出る人の流れを遡り、ほぼ空っぽのホールに入って、手近な座席に座ってみる。やっとここに来た。もっとも、演奏会はもう終わったあとだけど。
ホールに着いたときは、8時半を回っていたと思う。受付には一応人がいたが、俺が行ってチケットを差し出すと、申し訳なさそうな顔になった。
「すみません、もう最後の曲で……演奏会場の扉は曲と曲の間でしか開けられませんので、中でお聴きいただくことは……」
それでもいいので、と俺は言った。
ホールの席数は500程度か。控えめなハコだが、現代楽器ほどの音量が出ない古楽器オケなら、これくらいが妥当だろう。
ちょっと手を叩いてみる。聖堂のような残響が広がる。こういうホールは、響きをつかまえれば歌いやすいんだよなと、かつての合唱部員としての記憶で俺は呟く。武藤さんの声が一番綺麗に鳴るのもこういうホールだ。それ自体が響きのような、武藤さんの声。
ああ、ここで、あの歌を聴きたかった。
ほんの少し目を閉じて、かつての歌声を脳裏に再生して、しかし俺はそれで満足したことにするしかなかった。客がいつまでもいてはいけない。
「あの」
ほらやっぱり。声をかけられた。女性の声。
俺はそちらを見るかわりに、隣の席に置いていたコートと荷物を急いでかき寄せた。
「すみません。もう出ます」
「あ、時間はまだ大丈夫ですけど、あの、団員のお知り合いですか? 今ロビーに行けば話せますよ。みんなお見送りに出ているので」
「いや、俺は客演の武藤さんの、昔の知り合いですから」
「ソリストもロビーですよ。私はもう戻るところだけど……て、え? 武藤って、私?」
――今、「私」って?
俺は振り向こうとした。が、その前に、その人が目の前に回り込んできた。さらっと衣擦れの音がする。音を追って反射的に動かした目線に、ワインレッドのドレスの裾が映り込んできた。
「あーっ!」
その麗しきドレスに似合わぬ大声が上がった。
「合唱部の後輩の!? きゃー! びっくり!」
「え、俺のことなんか覚えてるんですか」
「覚えてる、覚えてる。だってよく視線いただいちゃいましたもん」
え、え!? 俺は固まった。
「え、し、知ってたんですか。あ、あのでも、俺は別に変な意味じゃなく、ただ武藤さんの歌が好きでつい……」
「あ、大丈夫、分かってたから。誰だったかな、あの頃『彼、彩の歌のファンなんだって』て教えてくれた子が……実は感謝してたの。私もプロを夢見ていいのかもって、うぬぼれるきっかけになったから」
武藤さんはにこっとした。
固まった身体が今度はふわふわになり、頭がぼうっとする。覚えていないが、俺はどこかで、武藤さんのファンだと公言したのか? まさか本人に伝わっていたとは思わなかったが、それがプロに向かわせる後押しになっていたとは、もっとまさかだ。なんだかもう、どうしていいのかわからない。
「……俺、今日の演奏、聴きたかったです。聴けてて、今の話が聞けたなら最高でした」
ぼうっとしたまま、俺は口走っていた。武藤さんがきょとんとした。
「聴いてない?」
「そうなんです。残業とかいろいろで、来れたのは終わってからで……」
「やだ、嘘! ちょっと待ってて!」
武藤さんはぐわっと裾を持ち上げて、ホールのゆるい階段を駆け上り、ロビーに飛び出していった。武藤さんて、歌ってないとこんな感じの人なのか。それにしても急にどうしたんだろうとぽかんとしていると、彼女は黒いドレスの人をひっぱってすぐ戻ってきた。そのまま俺の横を通過して、階段も使わず舞台によじのぼる。
武藤さんが真ん中に立った。黒ドレスの人が、チェンバロの前に座った。そして武藤さんは、ひとつ息をついて姿勢を正し、俺に向かって軽く礼をした。
歌う姿勢だ。
舞台が、急に「舞台」になった。
チェンバロが鳴り始める。ゆったりとした、温かみのある出だしは、メサイア第3部冒頭の、ソプラノのアリア――I Know That My Redeemer Liveth。
歌が始まり、ホールいっぱいに響く。あの歌、あの声が、俺の上に降り注ぐ。
俺は目を閉じ、受け止めた。天からの、本当の贈り物を。
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