入院生活
その日を境に、流れていく日々は早かった。医師の診察によれば俺の状態は一時的な記憶喪失。
ふとした瞬間に記憶が戻ったりすることもあるらしいが、その一方でずっと思い出せないこともある…とのこと。説明は受けたが、結局俺の頭ではほとんど理解が追い付かなかった。理解できた中で一番大事なところは無くした記憶が戻るかは全くわからないということくらいだろうか。
幸い、今は学校も春休み中で授業が進んでいるわけでもないから、あまり記憶を取り戻すことに躍起になる必要もない。そもそも戻す方法なんてわからないしな。
続いて、体に関しては骨折までは至らなかったため全治二週間。このまま予定通り退院できれば、無事に新学期にも間に合う計算になる。
そんなわけで、入院生活をちょっとした非日常くらいの感覚で過ごしていると聞こえてくる足音がひとつ。
いつも決まった時間に聞こえてくる足音に柄にもなく背を伸ばした。
※※
「はい、これ」
抑揚のない声で素っ気なく手渡されたそれを見て、俺が渋い顔をすると琴音が腰に手を当てて目を細める。
——お説教の時間だ。
「雅哉、入院中やることないよねそれに、新学期には余裕で退院できるんだから今のうちに宿題はやっておいた方が良いと思わない?」
諭すように、言われた言葉は正論過ぎてこちらに反論の余地すらない。それに言われた通り、入院中は基本的にやることがないのもある。
だから余った時間を有意義に使うことは理に適っている。とはいえ、正しいからといってすぐに行動に移せる人間ばっかりではない。
例えば、俺のように。
「……わかった、じゃあ暇な時間があったらな」
「そんなこと言ってどうせやらないんでしょ。わからない部分とか教えてあげるから一緒にやるよ」
そう言いながら、所有者の許可も取らずさっそく筆記用具やら問題集やらをベットの机に広げ始めてしまった。
もし、ここでその提案を呑んでしまったら、おそらく今後も琴音がお見舞いに来た時間は宿題をする時間になってしまうだろう。
確かに教え方は上手いし、自分一人でやるよりも効率的なことは確かだ。
だが、勉強を教わる相手として基本的には適任である琴音にも、一つだけ問題があった。それは責任感の強さ。
おそらく俺が宿題を終わらせるまで面会時間をすべて勉強の時間に当てることになる。そんな最悪の結果だけは避けなくてはならない。何故、貴重な病院での面会時間を使ってわざわざ勉強しないといけないのか。それにあれだ、友達が見舞いに来てくれた時、勉強してたら気まずいだろ。
…そういえば、あいつはどうしているのだろうか。
俺が入院していると聞いたら面白がって訪ねてきそうな気もするんだが。まぁ、いいか、これ以上心配の種を増やすべきじゃない。
話を戻そう。
もし、入院中に宿題をやることは百歩譲って受け入れるとしてもここは踏ん張り時だ。
普段はまともに回転しない怠け者の頭脳だが、こういうときには頼りがいのある相棒に変貌する。
まず確認しないといけないこととして理屈で反論しても埒が明かないことはさっきの問答で証明済み。琴音との付き合いは伊達に長くないのだ。理詰めで来られたら、俺が負ける。
勝率の低い勝負には手は出すべきじゃない。
——————負けられない戦いがそこにはあるのだ。
「琴音が今度来た時に宿題やった範囲見せればいいだろそのときやってなかったら、次からは琴音がいるときにも宿題やるから」
「まぁ、それなら……ってちょっと待って、別にその必要ないよね。私がいるときにやらない理由にはならないでしょ」
そんな初歩的な手で引っ掛かるもんですか、とでも言いたげな様子。さすがに、俺の手の内を知り尽くしてる。なかなかに手強い相手だが、ここまでは想定内。
ここからが正念場。理屈で崩せないなら感情で崩すのみ。
「わざわざ、琴音がお見舞いに来てくれてる間まで宿題とかするのは…ほらっ、あれだろ」
あとは相手が「ほらっ、あれだろ」の部分を勝手に解釈してくれればなし崩し的に上手くいくはず…
優秀な俺の頭脳は確かにそう予測していた。
「気にしなくても…私はこれはこれで楽しいから」
「あれ~?おっかしいなぁ…」
見事に予測が外れて、ついそんな言葉が口を通して出てしまったが琴音がそのことに気づいた様子はない。様子を見て改めて次の一手を考えようと、もう一度琴音に目を向けて、そこで思い留まる。
準備をしている琴音の様子はどこか嬉しそうで、
微かに鼻歌を歌っているのが俺の耳にも聞こえてきた。
どうにも、琴音は勉強を教えることが嬉しい…らしい。
それを見ると俺も「これで良いのか、うん喜んでるみたいだし」みたいになし崩し的に納得してしまう。
「…そう?——それじゃあ、まぁよろしく…」
「任せて、最初からそのつもりだったしね。それで…ちなみにだけど、宿題どれくらい終わってるの?」
俺が顔をそっと逸らすと、すぐに察してくれたのか詳しいことは追求せずに呆れたため息だけで済ませてくれる。
「しばらくは見てあげるから、さっさとやるよ」
俺の姑息で遠回しな誘導は、琴音の素直な一言ですべて無に帰してしまったわけだが。
まぁ、こんな時間も悪くない。
そう感じ始めていた。
————————!!
「雅哉?どーしたのぼーっとして?」
ここ最近のことを思い出していて、どこか虚ろとしていた様子の俺を不安げに見ていた琴音が目に入る。
「ちょっと考え事をしててな」
心配を掛けないように出来るだけ口角を上げることを意識した笑顔は功を奏したようで「なにそれ」と少し小馬鹿にしたように琴音も笑みを見せる。
「もう、準備できた?ちゃんとお世話になった人たちに挨拶した?」
「いや、今からしようと思ってたとこ」
ここ最近、琴音が良妻賢母のような立ち位置で俺がヒモのような関係性で見られるようになっていたのはこんな何気ない会話のせいだと最近になって気づいたがもう訂正するのも面倒でそのままにしている。
それに今日で、長いようで短かった病院生活も終わる。
今更、小さいことを気にしていても仕方がない。
荷物を持って立ち上がると久しぶりに琴音が俺を見る目が上目遣いになる。病室では、俺がベットに座った状態だったから基本的に同じ目線だったが立ち上がると新鮮なものに感じる。それを隠すように、何気なしに声を掛けた。
「それじゃあ、行くか」
「忘れ物ないよね、ちゃんと確認した?」
「お前は俺の母ちゃんか…」
もう何度目かわからない言葉をそっと呟いた。
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