約8分間の即死

てこ/ひかり

最終話

現在イマイマ、イマ……と言うが、厳密には”イマ”なんてものは存在しない」


 雲ひとつない、晴れ渡った夜だった。

 小高い丘の上で、父さんがぼくの隣に寝そべり、柔らかく笑った。


「”タイムラグ”があるってことさ。例えば痛覚。お前が誰かに腹を殴られたとする。だがその痛みをお前の脳が認識し、『痛い』と感じるまでには、0・数秒の時間差が発生するんだ。味覚や視覚だってそう。あの星空を見てごらん」

 父さんはそう言って空を指差した。


「あの星は何万光年先から光を届けているのかな。分からないが……こうして我々の目に届いている頃には、宇宙には、あの光の源である星はすでに存在しないかもしれないんだ。太陽の光が地球に降り注ぐのに、大体8分かかるんだよ。我々が昼間見ていた太陽は、厳密には8分前の太陽ということになる。”タイムラグ”。な。こんな話、聞いたことあるだろう?」


 ぼくはうんざりとしつつも首を縦に振った。父さんの話はいつもまどろっこしい。

 

 肝心なのはその部分なのに。いつだって曖昧な言葉ではぐらかされるんだ。


「お前は太陽の子だ」

「8分なら遅刻も許されるってこと?」

「”いつだって自分を信じろ”ってことさ。いいか?」


 父さんはじっとぼくの目を覗き込んだ。

「”他人を信じるな”ってことじゃない。ただ、時間差がある。他人の目には、評価には、必ず”タイムラグ”があるってことだ。お前が何をしようと……善いことも、悪いことも。客観視には必ず時間差タイムラグがあるんだ。大切なのは自分の直観だ。それを忘れるなよ」


 そう言って父さんはぼくの頭を撫でた。それがもう……もう、何十年前のことだろう? 撫でられた掌の温度を思い出すまでに、随分と長い時間差タイムラグになってしまった。



 そしてイマ……僕は戦場にいる。


 目の前の空間表示ポップアップには、今回の任務の目的地とターゲットの情報が浮かぶ。

 それ以外は何もなし。

 余計な情報は一切遮断する。与えられた情報のみに集中し、僕は虚空を睨んだ。


 任務前には、僕らの個人的な情報やプライバシーに関することは一切ように、脳に制限ロックがかけられている。数世紀前くらいの古典映画に、戦場に赴く兵士が涙ながらに自分の恋人や家族の写真にキスをする、なんてシーンがよくあったけれど、現代では失笑もので、少なくとも兵士の間ではきっと誰の共感も呼ばないだろう。僕だってそう思う。なんで戦場くんだりまで来て、わざわざオーバーに感情表現しているんだ。ここは戦う場所だ。総製作費ナン億円の愛国心ナショナリズムだとか、興行収入オイクラ万円の自己愛ナルシシズムなんかを見せびらかすための芸術展じゃない。


 戦場は文学じゃない。殺すか、殺されるか。もしくは殺すか、殺すか、殺すかだ。


 戦場に送り込むたびに兵士がPTSDになって帰ってきたんじゃ、人員リソースがいくらいても足りないじゃないか。感情は邪魔なだけだ。引き金を引く時に美学もためらいも必要ない。人間的な感情や動物的直観の類は、風呂に入る前に服を脱ぐのと同じように、戦う前に情報遮断シャットダウンしておくのが最近の流行トレンドだった。


 そりゃ僕らの政府も、本音を言えば、高性能なドローンや機械兵士ロボットを導入したいところだろう。


 だけど最新鋭の機兵は精巧な分、導入費も維持費もバカにならない。貧乏国家じゃ無理だ。そこで苦肉の策として提案されたのが、『人間の機械化』だった。機械を人間のようにするのではなく、人間を機械のように扱う。記憶や感情をマイクロチップによって制御し、行動をAIにより最適化し、より戦うことに特化された兵士達……痛みを痛みと感じない、人道的ゾンビ……それが僕らだった。


【目標まであと30km】


 脳内に埋め込まれたチップから、直接声が骨を震わせて駆け巡る。コンテナの四隅に備え付けられた、黄色いパトランプが、ゆっくりとモーター音を上げて回転し始めた。


「トム」

 隣でボブが僕の脇を肘で小突く。ボブは僕と同じ愛すべき志願兵人道的ゾンビだ。

「お前、今月あと何人だ?」


 ボブは人懐っこく目尻を下げ、白い歯を見せた。まだ『遮断スイッチ』を押していないらしい。大抵の兵士はコンテナに乗った時点で感情を切る。中にはボブのように、極めて少数派だが、面白がって到着ギリギリまで奴もいる。(「だってそれが生きるってことだろ?」といつか軍の食堂でボブは僕に言った。感情を素直に表現するのが生きるということなら、現代人の大半はすでに死んでいる)どうせ目標まで残り10kmを切れば、強制的にシャットダウンされるから、無駄な抵抗なのだけれど。


 ちなみに僕もボブも当然ながら本名ではない。戦場では名前など、互いを識別する記号コードでしかない。一時期”名前を上げる”こととか、”後世に自分の名前を遺す”ことが過剰に良しとされた時代もあったようだけれど、それも今となってはすっかり廃れてしまった。少なくとも、会ったこともない他人の名前を有り難がることよりも、今日の自分の食事を確保する方が、現代を生きる人々にとっての最重要事項になってしまったのだ。


「あと……5000人くらいかな」

 僕は真顔で答えた。当然、『スイッチ』は切ってある。

「あっそ。俺ァあと3000程度だ」

 ボブが誇らしげに力こぶを作って見せた。感情があれば、「50歩100歩だろう」と言って頭を叩く場面だ。約2000人分の命が、「どんぐりの背比べ」の一言で片付けられてしまう、そんな毎日、そんな世界。


 毎月3万人。


 それが僕ら一人一人に課せられた、戦場でのだった。”殺した奴の顔”なんて、もちろん覚えているはずもない。


【目標まであと20km】


「なぁ知ってるか?」

「…………」

「ここだけの話、来月からノルマ、増えるらしいぜ。一人5万だとか6万だとか」

「…………」

「こりゃいよいよ大詰め、殲滅ゴールが近いってことかな」

「…………」

「もしくはこっちの兵士がやられ過ぎて、人手が足りてないか、だな。こないだのWブロックの連中も、出っぱなミサイルで一撃ドッカーンだったらしいからな。ハハッ!」

「…………」

「なぁトム、お前あん時どっちに賭けたんだっけ? 俺たちの勝ちか、それとも向こうの勝ちか」

「…………」


【目標まであと10km】

 

 それからは、みんな静かになった。


【目標地点到達。作戦を開始します】


 脳内でスタートの合図が鳴り響く。ゆっくりとコンテナが開いていった。先頭にいた兵士たちから順に行動開始していく。統率の取れた、一矢乱れぬ動きだった。

 不意に、太陽の光が僕の視界に飛び込んで来て、僕は反射的に目を細めていた。



現在イマイマ、イマ……と言うが、厳密には”イマ”なんてものは存在しない」


 そして気がつくと、いつの間にか、僕の隣に父さんがいた。


 雲ひとつない、晴れ渡った夜だった。

 小高い丘の上で、父さんが僕の隣に寝そべり、柔らかく笑った。


「”タイムラグ”があるってことさ。例えば痛覚。お前が誰かに腹を殴られたとする。だがその痛みをお前の脳が認識し、『痛い』と感じるまでには、0・数秒の時間差が発生するんだ。あの星空を見てごらん」

 父さんはそう言って空を指差した。


「あの星は何万光年先から光を届けているのかな。分からないが……」

「父さん」


 僕は焦って叫んだ。空は真っ暗だった。


「見えないよ」

「こうして我々の目に届いている頃には、宇宙には、あの光の源である星はすでに存在しないかもしれないんだ。太陽の光が地球に降り注ぐのに……」

「見えないよ! 父さん、見えないんだってば!」

「”タイムラグ”だ」


 父さんが僕の肩をぎゅっと抱き寄せた。


「時期に見えるようになる。感じるように。”時間差がある”ってことだ。いいか? お前は太陽の子だ。意味は分かるな?」

「8分間?」

「……いい子だ」


 笑ったような、困ったような顔をして父さんは僕の頭を撫でた。どうしてだろう? その時僕は、それが人生最後の8分になると、直観で分かった。やがてゆっくりと、星の光が戻って来た。草の匂いが戻って来た。僕は大きく息を吸い、しっかりと湿った大地を踏みしめた。その感覚を確かめるように。いつまでも、いつまでも覚えていられるように。

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